承継
軌跡

(学生時代)

女子師範附属小学校、東京府立第二高等女学校を経て、女子経済専門学校へと進んだ[5][7][8]。同校在学中は新渡戸稲造吉野作造我妻栄民法学者)らに学び、このことがきっかけで法律の道を志したという[3]。学問の講究を望んだ正子は、昭和6年(1931年)に日本大学法文学部選科生として入学[8][9]、昭和9年(1934年)に同課程を修了し、同年に明治大学専門部女子部3年次に編入学した[9][10]。昭和10年(1935年)に同部を卒業して同法学部へと進学する[9]。在学中の昭和12年(1937年)、正子は高等文官司法科試験を受験して、女性初となる論述試験合格者となったが口述試験では不合格となった[11]。翌昭和13年(1938年)に再び同試験に挑み、久米愛三淵嘉子と共に女性初となる合格者となった[4][5][11][12]。3名の女性合格者はいずれも明大女子部及び同法学部の出身者であった[4][

(生い立ち)

明治43年(1910年)、東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に生まれた[4][5]。父田中國次郎は憲兵少佐[6] 、職業軍人の傍らシェークスピアを原語で読む好学の士であり、正子はこのような父の影響を受けて育った[7]