承継
メッセージ
このメッセージは、 2024年1月25日に、深田聖子さんが投稿
この度、父大貫正美ですが、2024年1月24日10時42分に静かに眠る様に永眠しました。家に帰りたいと入院中願っていたので、今はいつも父が過ごした2階のリビングに眠っていますが、いつ目を覚ましてもおかしくない、また母のボケを突っ込んでもおかしくない、まだそんな様子で寝ています。

父は、1987年7月に交通事故で左足を負傷しました。また小さかった私たち3人の子どもを育てるため、まだ治っていない足で無理をし、完治しないまま仕事をして、骨髄炎が発病し、入退院を繰り返して、とても長い闘病生活がをしました。痛みもとても酷かったと思います。そんな辛い闘病生活を繰り返しても、父は、私たち家族のために痛い事が大嫌いでも何度も手術を繰り返し、自分の皮膚を足に移植したり、色んな種類の手術に挑み、その痛みを堪えて頑張ってくれました。私の結婚式の時には、自分の足で杖も使わずに一緒にバージンロードを歩いてくれました。でも、そんな何度も繰り返す手術でも完治出来ず、20年の闘病のすえ左膝の上から切断しました。切断後もその身体に慣れるまでは本人はとても苦労したと思います。もう無い足の指が痒いと幻覚かあったり、私には想像の付かない辛さがありました。そんな身体でも、孫たちはその義足が当たり前で、それがじいじの脚になんの違和感もなく、孫たちにとって肢体不自由の障害者さんに偏見もなく育ったと思います。
こんなたくさんの手術を繰り返した父ですが、11年前に間質性肺炎を患いました。私たちにはそんな難病もなんの話?と言うくらいいつも通りの父でした。間質性肺炎で入院しても必ず復活して戻ってくるし、いつも明るく流行りにも敏感で、何でも知っている父でした。孫たちはじいじが大好きで、私は絶対に触らないハゲている頭をぺしぺし叩いて大笑いしたり、ガチャガチャを中身が無くなるくらいやりまくったり、孫にはとても愉快な大好きなじいじでした。
その父さんがどんどん悪くなって来たのは去年の12月入ってすぐの再入院の時でした。入院しても中旬ごろは復調し、入院してすぐの時に使用した薬の量が多かった事で、少しずつ薬の量を減らし、容態の変化がない事を確認出来ないと退院出来ず、父は正月は家に帰りたかったのにそれが叶えられず、落ち込んだ事で容態も悪くなりました。それでも先日退院が決まり、悪いながらも希望が出て、少し復調しそうな雰囲気だったのに、血液検査の結果の炎症数値が悪くて、抗生剤で下げないと帰れないと言う状況になった時から、父の諦めの気持ちも伝わって来てきました。一緒懸命、『帰ろうね。』『大丈夫だよ。』って伝えて来たけど、もう疲れたって父が言ってるようなそんな気持ちも伝わって来ましま。その中のお見舞いは、私にとって非常に過酷で、日々死に向かっていく親の姿も見ているのもいっぱいいっぱいでした。病院の外に出て、上を見上げて涙を我慢しての日々でした。
永眠した当日、本当に現実に向き合う事が大変でしたが、病院のスタッフさん達がお見送りをしてくれる時に、泣いて下さる看護士さんが居て、父は本当に周りに慕われていたのだと感じました。

足で入院した時、母のために作り始めたビーズのアクセサリーが、気付いたら看護士さんのために使っていて、私も妹も貰ったこともなく、クリスマスにナースセンターで看護士さんたちとケーキを食べるなんてそんな患者さん居るのか?と言うそんな周りに気が聞いて、周りに慕われ、身体が悪くても母は父に頼り、頼り甲斐のある父でした。

皆さんとここで父の事を語り合って、父の弔いになれば良いなと思ってます。思い出話、写真などありましたら、ぜひ皆さん投稿をお願い致します。

長女 聖子

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