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母・百瀬美千子は、2023年12月24日、自宅・自室で突然死しました。
享年74歳 。誕生日 1月9日まであと16日でした。
75歳の後期高齢者になると医療費が一割になる、などと言っていたのに…。
推定の死亡時刻は12時から13時、推定の死因は「心嚢(のう)炎」でした。
心臓の既往症はありませんでした。

■生い立ちと人生
中野区野方で生まれ、千代田区神田神保町で育ち、19歳で9歳年上の父と結婚。
20歳で兄、25歳で私を産み、育ててくれました。
48歳で父と死別の3年後には、今の自宅の土地を買い家を建てて、常に家族の先を考えてくれる情熱と行動力のある人でした。

近年、物忘れやカッとなることが多く、私達と喧嘩になることが増えていました。
また片付けができない、物の管理ができない、と年齢的なものがやや不安な感じになり、リウマチもあり…でも両親が90代まで健在だったので、きっと深まることはあるかもしれないけれど、まだまだずっといると思っていました。

本人も突然こんなことになるなんて、と驚いているかと思います。

■亡くなってから葬儀、納骨まで
  • 12月25日から28日まで家に私と二人でいて、納棺。
  • 12月29日に身内のみの葬儀を経て荼毘に付しました。
  • 翌年、2024年2月12日に四十九日法要とともに、納骨をいたしました。

■亡くなった経緯
以下、私目線の当日の経緯について長文ですがお付き合いいただけましたらと思います。

その日は娘である私、百瀬雪絵は前日整体に行った好転反応で体調が悪く、昼過ぎまで3階の自室のベッドで過ごしていました。
12時台にインターホンが鳴ったけれど起きられず、「また母が荷物を受け取ってくれるだろう」と思って惰眠を貪っていたのです。

14時頃ようやく階下へ。
居間とダイニングのある2階は普段はシャッターとカーテンが開けられているのに閉まっていました。
そして、母の部屋と洗面所のある1階へ降りていったところ、荷物はありません。
「なんでかな?」と少し思いつつも、前日具合が悪いと言っていたので、部屋で過ごしているんだと思ったのです。
母の部屋からは灯りが漏れ、テレビの音がしていたので「大丈夫みたいだな。」と安心し、2階のダイニング(母の部屋の真上)で食事をしたり、居間でテレビを見たりしていました。

しかし17時半を回った頃、最近トイレが近いのが悩みだった母の動きがないことに嫌な予感を少し感じつつ、畳んだ洗濯物を持って母の部屋の扉を開けたところ、灯りとテレビと暖房のついた部屋で…

母が血の気を失った顔で、ベッドの長辺に頭と足を向け、上半身は掛け布団をかけていない状態で横たわっていて…悪い予感は的中してしまいました。

「うそでしょ?」
慌てて近づくと、目と口が薄く開いていて顔を触るともう冷たくなっていました。
下半身の布団の中はまだあたたかいのに、顎も、膝も、手も、もう固まっていたのです。

1997年9月に終末期の在宅介護で父を見送った際、死後直後から身体が冷たく固まっていくさまを見ていた私は直感的に「5時間ぐらい経ってしまっている。」と悟りつつ、「死んでいると明らかにわかっている場合は救急車を呼んではいけない」という情報が頭によぎりつつも、119をダイヤルしました。

「火事ですか、救急ですか?」
「あの、母が…死んでしまっているみたいなんです!」
 …
「蘇生措置として心臓マッサージをして救急隊の到着を待ってください。」
母はもう固まっているのに、、無駄なのに…。
それでも死を認めたくなくて、私はかつて消防署で講習受講者証を得たときと同じように母に跨り、かなりの力で胸を押し続けました。
母の口からグッグッと空気の漏れる音がして、前日に整えたばかりの腰を傷めただけでした。
警察が来るだろうから、とそれより前に母の瞼を閉じてあげました。
顎はどうにもできません。

驚くほど冷静に、動揺せず対応しているなぁ と自分を俯瞰するもう一人の自分がいるような状態でした。

救急要請後、出張している兄に電話をしました。
まとも会話が成立するのは1年半ぶりぐらいでした。

救急車が来て心電図計測をして、思っていた通り警察が来ることを告げられました。

近所に住む母の弟である叔父に連絡をして来てもらうことにし、警察が来て少しして叔父も来てくれました。

警察の方にいろいろと状況について質問をされましたが、噂に聞いていたような犯人扱いされるような強い口調などではなく、本当に事務的な感じでした。
担当の刑事さんも、お父様を風呂場でヒートショックで亡くされた経験者だとおっしゃっていて、つらさがわかる方だったのだと思います。

『最後に会ったのは?』
23日夜23時頃、母が私が昨日設定して移行したばかりのスマホを2階に忘れているので階下に入浴に降りた際に渡したのが最後です。
(その時に「ありがとう」ってボソッと言われたのが私にとって最後の会話になってしまったのです…。)

リウマチが持病の母ですが、そのかかりつけは大学病院で、大学病院は「かかりつけ」指定ができません。
このように医師による「死亡診断書」が出せない死は、監察医による検死を受けることになります。翌日渡された書類は「死体検案書」でした。
(今回の場合、突然死なので警察行きはいずれにせよ避けられなかったようではありますが…。)

その際、既往歴や現在の服薬などという背景情報が必要になるのですが…
母の既往歴について説明をするが保険証もお薬手帳も見当たりません。

前日体調が悪く近くの内科クリニックに行ったようなのですが、その経緯も兄が私のことを毛嫌いしていて全く伝達されていませんでした。

母は元から片付け上手ではないうえにここ一年半は「とりあえず」ものをそこら辺においてしまい、片付けが全然できなくなっていました。

必死に家中を探し、薬と手帳を発見。
わかったのは、胃の具合の悪さを訴えて薬をもらったこと。
「心臓だったんだな」と確信をもちました。

母がドラマのように警察の人に写真を撮られ、死体袋に入れて運ばれて行きました。

ガサガサという音とジッパーを閉める音。
まるで「モノ」みたい…。

こんな死に方さえしなければ、病院でエンゼルケア(死後処置)をしてもらえたのに…。
2022年7月13日に亡くなった祖母は眠っているようだったのに…。

ドラマみたいなステンレスの台に素っ裸で載せられたり、袋に入れられて冷蔵庫に保管されてしまうことがかわいそうでしかたがなかったです。

ずっと異常行動を取り続けていた兄と1年半ぶりぐらいにまともに会話をしました。
兄が早朝出かける前に「病院どうする?」と聞いたら「いいわ。」と答えたとのこと。
母の枕元には、24日11:30に再度受診する予定をキャンセルするとの手書きメモが転がっていました。

私が昼普通に起きていれば…。あるいは起きた時点でカーテンが開いていないことに違和感を感じて見に行けば…あんな硬直するまで放置されることもなかったかもしれない…。
大きな石を抱くような後悔が重くのしかかってきました。

当日夜、警察から電話。
死因を詳しく知りたい場合はいわゆる「剖検」になり時間がかかる。推定でよければ明日家に帰すことができる、とのこと。
後者を選びました。

翌日警察署に迎えにいく葬儀社。
お寺への連絡。
眼の前の「いまやらなくてはいけないこと」をクリアすることで時間が過ぎていきました。

現実ではないような感覚のまま、眠れないけれどとりあえず身体を横たえていたらふと警察官に
『手袋を右手だけしていないけどなんでですか?』
と問われ、その場はわからないと答えたことが頭に浮かびました。

「あ…スマホを使って助けを求めようとしたんだ…。」

心拍が一気に高まり頭に血が上りました。

後悔のない死別はない、といくつもの別れからわかってはいたけれど、同じ家の中にいて気づいてあげられなかったことへの悔やみが激流となって身体を突き上げたのです。

何日か前に母がメチャクチャなことを言い大喧嘩になって、「しんじまえ」ぐらいのことを思ったので、こんなクリスマスプレゼントを与えられたのかもしれないです。

母の2024家計簿があり、もう最近の自分の心境が書かれていました。お金の悩み。

「年末にドカーンと当たればいい。」(宝くじのこと)

こんなもの当たらなくてよかったのにね。。

■警察には「コロナワクチンを何回接種しましたか?」という質問をされました。


私がその後自分の定期通院時に医師にその話をしたところ
「厚生労働省がワクチンの副反応のデータ蓄積のため、不審死を死た場合には必ず聞くことになっている。」
と知りました。

8月には家族3人ともコロナにかかってしまったのに、母はその後も継続して都合5回も接種していました。

ワクチンが心臓に良くない、とよく聞く話ではありましたが、まさかそれが自分の母親に降ってくるとは夢にも思いませんでした。






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