承継
軌跡

生い立ち

  • 生涯アイドル歌手としてデビュー1967年(昭和42年)7月31日午前11時17分、東京都板橋区上赤塚町(現:成増)の成増産院にて、体重2860gで生まれ、ラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられる[4]。家族は東京都葛飾区柴又に在住していたが、幼いうちに埼玉県朝霞市に移住し、朝霞白百合幼稚園に入園した。以来、生涯の大半を朝霞市で過ごした。
  • 歌手になることを夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。朝霞市立朝霞第一中学校3年生の時に『スター誕生!』のオーディションを受けた。14歳で出場したテレビ予選では柏原芳恵の「ハロー・グッバイ」を歌い、合格して決戦大会へ進出した。この時の出場者の5人の中には松本明子徳永英明がおり、3人とも決戦大会へ進んでいる。15歳を迎えて出場した決戦大会では松田聖子の「ブルーエンジェル」を歌った。しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった[註 2]
  • 高校2年生の1984年(昭和59年)9月に第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、「夢少女」(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞[1]。このことがレコードデビューのきっかけとなった。

キャリア


闘病

  • 死去2004年(平成16年)末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた[5]。そんな中11月には地元・朝霞市でのコンサートや、12月23日には新宿文化センター大ホールでのクリスマスコンサート、暮れには結果的に生前最後のTV出演歌唱となった翌2005年1月30日テレビ朝日系放送の「題名のない音楽会21」の収録に臨んだ。 
  • 2005年(平成17年)1月12日急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院し、翌日にはその事実が公表された[5]。 その後、2度に亘る化学療法を受けるが、寛解は得られなかった[5]急性骨髄性白血病の中でも極めてまれな予後不良の治療抵抗性の白血病であったという。治療として骨髄移植が考慮されたものの、骨髄バンクドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年5月臍帯血移植を受けた[5]。同7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、同年9月8日に再入院し、輸入新薬による抗癌剤治療を受けた[5]。翌月には再度一時退院、その間には白血病患者支援のためのNPO法人『Live for Life』が設立されたが、同月末には再入院となった[5]
  • その後への合併症から容態が急変し、同年11月6日午前4時38分、東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院で家族に看取られながら息を引き取った[2]。38歳没[1]