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この追悼サイトは、 森 光子(女優・司会者・歌手)さまのために作成されました。

享年92歳 、誕生日 1920年5月9日、命日 2012年11月10日
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森 光子(もり みつこ、1920年大正9年)5月9日 - 2012年平成24年)11月10日[3])は、日本女優歌手マルチタレント司会者日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長フジテレビジョン番組審議会名誉顧問[4]国民栄誉賞受賞。栄典従三位勲三等瑞宝章紫綬褒章文化功労者文化勲章東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使[5]

京都府京都市出身。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退。 俳優の嵐寛寿郎従妹である。

1939年(昭和14年)10月、映画法が制定。映画出演が制限され始めたため、1941年(昭和16年)、21歳で歌手を目指して陸軍の満州慰問団に参加した[8]。戦時中は日本軍慰問団で東海林太郎らの前座歌手としてミスワカナ・玉松一郎らと中国戦線や南方戦線を巡回する。慰問団では赤木春恵と出会い、以後60年以上に渡り親交を深めることとなる[9]。後年、セレベス島滞在中の体験談を語っている。森は事前に、空襲の際にはホテル防空壕よりも、堅固な近くの刑務所の防空壕に逃げるように説明されていたが、ある日、買物からの帰り際、空襲警報に遭遇、やむなくホテルの防空壕に避難した。しかし、空襲で直撃弾を受けたのは刑務所の防空壕だったため、難を逃れたという[10][出典無効]。

この時期、映画『小島の春』(監督:豊田四郎)を観て、この映画の杉村春子の演技に大きな衝撃を受け、これ以上の衝撃を以降感じたことはないと述懐している。森は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」とも語り、杉村を生涯の師とした[11]

終戦後は役者活動に留まらず、ジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業も行っていた。1947年(昭和22年)、27歳の時、そこで森を見初めた日系アメリカ人2世の米軍属リチャード・ウエムラからプロポーズを受け婚約する。だが芸能界に未練があった森は決まっていた渡米をキャンセルし、日本に留まった。ウエムラは結局婚姻関係を結んでから1週間後にハワイに帰り、短い結婚生活は終わった[12][13]その後1949年(昭和24年)の秋に肺結核と診断され、約3年間芸能活動を休止、京都山科で闘病生活を余儀なくされる(これ以前の1944年戦地慰問先の南京で既に肺浸潤性疾患を患っている)。この頃「森光子は死んだ」という噂がまことしやかに流れ、のちに復帰作となったNHK大阪放送局製作のラジオドラマ『エンタツちょびひげ漫遊記』で共演した赤木らもそう信じていたという

1955年(昭和30年)、ラジオ出演に関して朝日放送と専属契約[15]。大卒初任給が1万2千円程度というこの時代[16]に「契約金60〜65万円、番組へのレギュラー出演を局側が保証する」との高条件の下、ミヤコ蝶々南都雄二夢路いとし喜味こいしらと『漫才学校』にレギュラー出演[17]。芸達者な実力者を向こうに回し、関西をホームグラウンドにラジオタレントとしての確固たる人気を獲得、『ロート東西お笑い他流試合』での大阪方の司会役などバラエティー番組のみならず、ラジオドラマでも活躍する

1958年(昭和33年)梅田コマ劇場でダイマル・ラケットと共演した舞台『あまから人生』で、防空壕から洗濯物を持って出るシーンの台本に台詞が無く「8分間よろしく」とだけ書かれていたため、アドリブでこの当時のヒット曲『船方さんよ』、『お月さん今晩は』、『有楽町で逢いましょう』、『俺は待ってるぜ』の4曲を1フレーズずつ繋げたものを歌ったところ客うけがよく、この時、偶然にも空港へのハイヤーを待っている間に劇場に入って森の演技を見ていた東宝菊田一夫に「芸術座で芝居をやらないか[18]」と上京を誘われる。大阪で絶大な人気を誇り、実力を認められた森であったが、かねてから、東京からのスターとの共演では香盤が4番手程度になることに不満を持っていた[18](脇役専門の女優として甘んじていたこの頃のエピソードとして、三木のり平と共演したある舞台の楽屋でのこと、「名前を書かずに、自分の胸の内を川柳にして詠みあおう」と仲間内で遊んでいた際、「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」と詠んだ話がつとに有名である)。そこで、東宝と専属契約を結び上京を決意[19][20][出典無効]し、この年の芸術座公演『花のれん』(原作:山崎豊子、脚色:菊田一夫、主演:三益愛子)で東京進出を果たし[18]、その後も『がめつい奴』などに出演する。当時ABCとの契約も残っていたため、『びっくり捕物帖』の出演分は、VTRで撮りだめして対応した[18]

200px-Mori_mitsuko_okamoto_yoshihiko_1960.jpeg岡本愛彦と。1960年1959年(昭和34年)、大阪から東京に拠点を移したほぼ同時期、NHK大阪出演時の仕事仲間で、直後にラジオ東京に移籍したプロデューサーで演出家の岡本愛彦と結婚。岡本が5歳下だったこともあり、森本人は3歳サバを読んで36歳ということにしていた。

1963年(昭和38年)、『放浪記』で人生初の主演を務めあげたことで、森は仕事にのめり込み仕事最優先となる。この時の心境について「いつでもぎりぎり決着の逃げ場のないところで、体をぶつけて、私は生きてきました。俳優という退職金失業保険もない職業のみじめさを、私は自分自身の体に刻んでいるのです。だからお仕事を断るなんてぜいたくなことはできない」と、当時のインタビューで答えている。そんな妻に対して、夫・岡本は「君は仕事に殺される、仕事を半分に減らせ」、「夫の忠告がなぜ聞けないのか!」と、森を思うが故、反発するが、その亀裂はもはや修復不可能となっていた。結局、森は仕事を選び、この年2人は離婚。この結論に至った事については「私は、妻の座についていたかった。今でも岡本を愛しています。許してくれるなら、謝りもしましょう。現に、彼の前に手をついて、『別れないでください』と泣いて頼んだこともありました。でも、結局、破局でした。2人の間には、永久に交わることのない、平行線があったのです。一つだけはっきりしているのは、もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていくということ」と語っている[26]。結局、森はこの時の決意を全うし、この離婚以後、生涯独身を貫いた。ただ、一方ではその後、作家の水上勉五味康祐との恋愛関係[27]や、作曲家の渡辺岳夫との長期にわたる不倫関係を取り沙汰されたこともある

出演[編集]舞台[編集]
  • がしんたれ1960年(昭和35年)10月、芸術座この舞台で演じた林芙美子役が脇役ながらも高い評価を受け、『放浪記』の主役の芙美子役に抜擢される。
  • あかさたな1967年(昭和42年)13月、芸術座
  • 放浪記出演回数は2008年12月の中日劇場で1995回、主役を演じた年数45年は日本記録。2009年5月9日の自身の誕生日、東京・帝劇で前人未到の上演2000回を達成。千秋楽時点で2017回。
  • おもろい女1978年初演。芦屋雁之助とのコンビで、戦前活躍した漫才コンビであるミスワカナ・玉松一郎を演じる。1979年には文化庁芸術祭大賞を受賞し、『放浪記』と並ぶ森の舞台での代表作となった。なお、2004年4月に雁之助が死去したことから、この年の公演からは段田安則が新パートナーとなる。上記のとおり、実際の初代ワカナ[注釈 19]は戦前に共に慰問に行ったなどのことから森が師と仰いだ女芸人であり、本作でも「若き日の森光子」役の女優が登場し、ワカナ役の森と絡むなどのくすぐりがある。最後となった2006年までの上演回数は通算463回。
  • 雪まろげ森が旧知の作家小野田勇に「嘘つき女がやってみたい」と話し、書かれたもの。初演は1980年。「北海道編」「山陰編」といった続編も含めた2009年までの通算上演回数は471回にのぼり、「放浪記」「おもろい女」に続く第3の代表作。森がメディア出演の際に時折披露していた、「津軽弁で歌う『津軽海峡・冬景色』はこの舞台のワンシーンである。
映画[編集]全国唯一の森さんの自筆なのね
      森光子放浪記記念碑  新潟県上越市東町1-1  直江津駅前

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軌跡

(生い立ち)

母親・艶は祇園の芸妓、父親は紡績会社社長の御曹司で学生時代に母を見初め、共に寄り添う仲となったが、家族の反対に遭い結婚がかなわず、そのなかで森は生まれ、母親の私生児として育てられた[1]。幼少の頃は歌と踊りが大好きで、7歳の時にはNHKラジオ番組にも出演している。母の実家は京都・木屋町二条下ルで商人宿『國の家』を経営、旅館にはしばしば俳優の阪東妻三郎が芸者衆を連れて訪れており、その華やかな様子も少女時代の森に大きな影響を与えた。しかし『國の家』は後に倒産、両親も森が13歳のときに肺結核で相次いで死去

(映画デビュー~一時引退)

森は当初、松竹少女歌劇のスター、水の江瀧子に憧れて歌劇の道を志すも果たせず、不本意ながらも[6]従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属。1935年に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビューしたが[7]1937年(昭和12年)、嵐が寛プロを閉鎖。1938年(昭和13年)、日活に移籍する中、森は新興キネマ(後の大映)に所属し、娘役として多くの映画に出演した。多くは「狸物(阿波狸合戦伝説に材をとった『阿波狸合戦』を初めとする喜劇映画)」などの喜劇や二線級の映画であり「溝口健二の『祇園の姉妹』のような映画に出たい」と夢見ていた森は失望する。またこの頃、気鋭の映画監督だった森一生にプロポーズされ、婚約したがその後婚約破棄。これを境に撮影所内で悪評が立ち始め、役者としての活動をしづらくなったため映画界から一時身を引く