(映画デビュー~一時引退)
森は当初、松竹少女歌劇のスター、水の江瀧子に憧れて歌劇の道を志すも果たせず、不本意ながらも[6]従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属。1935年に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビューしたが[7]、1937年(昭和12年)、嵐が寛プロを閉鎖。1938年(昭和13年)、日活に移籍する中、森は新興キネマ(後の大映)に所属し、娘役として多くの映画に出演した。多くは「狸物(阿波狸合戦伝説に材をとった『阿波狸合戦』を初めとする喜劇映画)」などの喜劇や二線級の映画であり「溝口健二の『祇園の姉妹』のような映画に出たい」と夢見ていた森は失望する。またこの頃、気鋭の映画監督だった森一生にプロポーズされ、婚約したがその後婚約破棄。これを境に撮影所内で悪評が立ち始め、役者としての活動をしづらくなったため映画界から一時身を引く