承継
軌跡

家系

父・新免無地(尚、眼無地)は、赤松氏の支流である新免氏(新免とも書く)の一族とされる。「小倉宮本系図」では、武蔵の養子・伊織の祖父で別所氏の家臣である田原家定が実父で、武蔵はその次男とされているが、伊織自身が書いた『泊神社棟札』や『小倉銘文』にはその記載はない。
武蔵は播磨(現在の兵庫県高砂市米田町)で生まれたとする説と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の記述から美作国宮本村(岡山県東部)で生まれたとする説がある。

剣士として

  • 人並み外れた剛力の持ち主で片手で刀剣を使いこなすことができた。これが後に二刀流の技術を生み出すに至った。
  • 祭りで太鼓が二本の撥(ばち)を用いて叩かれているのを見て、これを剣術に用いるという天啓を得、二刀流を発案した。
  • 自身の剣術が極致に達していた頃、修練のために真剣の代わりに竹刀を振ってみると、一度振っただけで竹刀が壊れてしまった。そのため木剣を使い始めたという。
  • 立会いを繰り返すうちに次第に木剣を使用するようになり、他の武芸者と勝負しなくなる29歳直前の頃には、もっぱら巖流島の闘いで用いた櫂の木刀を自分で復元し剣術に用いていた。
武蔵が生きた時代は、日本が激変した時代である。16世紀後半、ポルトガル人によって日本に銃が伝わりました。武士は銃に背を向け、伝統的な剣術が続けられた。剣術の流派が栄えたが、実際の戦闘で剣が使われる可能性が低くなると、次第に武術は武道となり、戦闘における効果よりも、内面の自制心や人格形成の習得のために剣術の本質を強調するようになった。

芸術家として

武蔵は多くの絵画を制作し、鞍や木刀、剣山も制作しました。これらの多くは松井家や寺尾家の手に渡り、保存されてきました。現在、本物と認められているのは、黒塗りの鞍、船島の戦いで使われた木刀のレプリカと言われる木刀、二天一流の練習に使われた大小の木刀だけです。

  • 主要な画として、『鵜図』『正面達磨図』『面壁達磨図』『捫腹布袋図』『芦雁図』(以上は「永青文庫蔵)、『芦葉達磨図』『野馬図』(以上は松井文庫蔵)、『枯木鳴鵙図』(和泉市久保惣記念美術館蔵)、『周茂叔図』『遊鴨図』『布袋図』(以上は岡山県立美術館蔵)、『布袋観闘鶏図』(福岡市美術館蔵)などがある。
  • 書としては、『長岡興長宛書状』(八代市立博物館蔵)、『有馬直純宛書状』(吉川英治記念館蔵)、『独行道』(熊本県立美術館蔵)、『戦気』(松井文庫蔵)が真作と認められている。