この想いでサイトは、 柳生 宗矩さまを永遠に承継するために作成されました。
※メッセージの投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)
戒名:芳徳院殿故但州剌吏荘雲宗巌居士
墓地:芳徳寺 (奈良市)、 日本
関連リンク:
奈良:https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/tonosa...
柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
生涯[編集]誕生から徳川家仕官[編集]元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる[1]。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。
若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている[注釈 1]。文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父・宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に[3]、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる[4][3]。
慶長20年(1615年)の大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという[注釈 2]。 なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
坂崎事件[編集]
柳生家の墓地 <円満山広徳寺> 東京都練馬区桜台6-20-19
※メッセージの投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)
戒名:芳徳院殿故但州剌吏荘雲宗巌居士
墓地:芳徳寺 (奈良市)、 日本
関連リンク:
奈良:https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/tonosa...
柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
生涯[編集]誕生から徳川家仕官[編集]元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる[1]。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。
若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている[注釈 1]。文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父・宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に[3]、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる[4][3]。
慶長20年(1615年)の大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという[注釈 2]。 なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
坂崎事件[編集]
柳生家の替紋「柳生笠」 大坂の陣の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件の交渉と処理に活躍し[注釈 3]、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に直盛を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡(われもこう)に雀」に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子・平四郎を引き取って200石を与えて大和に住まわせ、2人の家臣を引き取り、その内1人には200石を与えている
家光の下での躍進から大名へ[編集]元和7年(1621年)3月21日、後の3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、新陰流を伝授する。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年)10月3日には、3,000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)8月14日の4,000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年)9月13日、500石の加増。続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分2,000石の加増もあり、所領は1万2,500石に達した[6][7]。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である[注釈 4]。また、友人の沢庵宗彭[注釈 5]を家光に推挙したのも、このころのことである[注釈 6]。
宗矩の言葉[編集]兵法家伝書
柳生家の墓所 <芳徳寺> 奈良市柳生下町445- 「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや」
- 「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」
- 「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」
- 「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
- 「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」
- 「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」
- 「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」
柳生家の墓地 <円満山広徳寺> 東京都練馬区桜台6-20-19
- ※注:このサイトは、柳生宗矩に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
アルバム
報告