- 1944年 (42歳) 3月、戦車第26 連隊の隊長を拝命、満州国北部防衛の任に就いた。 当初は「サイパンの戦い」に参戦する予定だっ たが、現地守備隊が早々と玉砕したため6月20日に硫黄島への動員が下された。
- 戦車第26連隊は硫黄島へ向かう途中、 父島沖で米海軍潜水艦の雷撃を受け、28両の戦車ともども輸送船「日秀丸」は沈没した。 8月、戦車補充のため一旦東京に戻り、世田谷の馬事公苑 (ばじこうえん) で余生を過していたウラヌスに会いに行くと、ウラヌスは西の足音 を聞いて狂喜して首を摺り寄せたという。西「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」。
- 1945年、硫黄島守備隊として小笠原兵団直轄の戦車第 26 連隊 (九七式中戦車)の指揮を執ることとなった。 硫黄島においても愛用のを手にエルメス製の乗馬長靴で歩き回っていたという。車第26 連隊は米軍のM4 中戦車と撃滅戦を展開。
- 英語に堪能な西は、負傷したアメリカ兵を尋問したのち、乏しい医薬品でできるだけの手当てをした。 その際、米兵のポケットに母親からの手紙があったという。
- 米軍にはロサンゼルス五輪の英雄を知る者も多かったため、「バロン西、我々はあなたを失いたくない。 出てきなさい」と日本語で何度 も投降を呼びかけたが、西は無視した。
- 3月17日に音信を絶ち、3月21日の明け方、兵団司令部への移動のため敵中突破中に掃射を受けその場で戦死したとも、副官と共 に拳銃自決したともいわれる。享年42硫黄島の東海岸には 「西大佐戦死の碑」がある。
- 戦死により陸軍大佐に進級。 墓所は青山霊園。 死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居たウラヌスも死亡している。 1990年、西が死ぬまで離さなかったウラヌスのたてがみ)がアメリカで発見され、軍馬頭のある北海道中川郡本別町の歴史民 俗資料館に収められた。
※硫黄島の司令官、栗林忠道陸軍中将 (最終階級・陸軍大将)も騎兵出身だった。