承継
軌跡

(エピソード)

信隆の父は鹿内徹(1880年 - )、母はモヨ(1886年 - )といった[24]。鹿内家は明治初期に南部県より増毛に渡ってきたヤン衆である。徹は日露戦争に出征した際に写真班に配属され、その際に身に着けた技術を生かして留萌町写真館を開業したが、町内に写真館が3件しかなかったこともあり、ニシン漁に沸く当時の留萌町は未曽有の好景気で写真館は大いに繁盛し、徹は夜な夜な留萌の繁華街で豪遊したと言う。その後、独学で資格を取得し歯科医となった[24]。徹とモヨは由仁町に移り住み、勉強に励む夫の代わりにモヨが当時としては珍しい女写真師として写真館を経営し家計を支えた[24]。徹は写真館に歯科医院を併設、“鹿内歯科医院写真部”と称し、北海道の片田舎には珍しい天窓の付いたモダンな二階建て家屋を建てた

(エピソード)

1924年岩見沢中学に進むと弁論部に入って主将を務めていたが、鹿内は、「小生意気な子供であった」という[4]。通学用の革靴が買えなくて、母親の婦人靴をぱかぱかいわせながら穿いていた[5]。母親も事あるごとに借金しようとしたが、由仁町の平均的生活感情からは、「変った一家」とみられたため、誰も金を貸すものはいなかった[5]