生い立ち
- 1848年の江戸末期に誕生した沖牙太郎氏は、広島県沼田郡新庄村(現在の広島市西区新庄町)で誕生しました。沖家は多くの人を扱う大農でしたが、将来は大工になると言っていたようです。手に職を付けている技術職の象徴として、大工に憧れていたのかもしれません。また、極めて負けず嫌いで、相撲の際は相手の肩先に食いついて離さなかったという記録もあるとか。事業家としての負けず嫌いな精神と、手に職を持った技術者への憧れが影響し明工舎を作り上げたのでしょう。
- 1874年、時代は江戸から明治に移り、沖牙太郎氏は27歳で東京の新橋に上京しました。同郷の先輩である、原田隆造氏(工部省電信寮の修技科長)の元、書生として電信寮に通うことになります。電信寮には、電信機を製作する製機所があり、銀細工師(※2)として働いていた沖牙太郎氏は電信機の製造に惹かれていました。沖牙太郎氏の書生としての仕事ぶりや熱心な姿に周囲の推薦を受けることになり、そして沖牙太郎氏は製機所で働くようになったのです。製機所の責任者の一人、ルイス・シェーファーに認められ、2年4ヶ月という異例の速さで昇進した沖牙太郎氏は、旋盤を担当する技工の地位が与えられました。