承継
軌跡

(幼少期)

手塚治虫(本名:治)は1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市本町付近)に、父・手塚粲(てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日[3])と母・文子(1909年 - 1983年)の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「」と名づけられた[4]。3人兄弟の長男であり、弟は手塚浩(1930年 - )、妹は宇都美奈子(1932年 - 2015年)。

1933年、治が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)川面(かわも)の邸宅に移り住んだ。

(宝塚少女歌劇団を身近に育つ)

父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れていってもらっていた[7]。また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の男役トップスターである天津乙女(本名:鳥居榮子)と雲野かよ子(本名:鳥居華子)と池邊鶴子(本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった[8

(漫画家への歩み)

1935年、池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校,ただし移転により当時とは場所が異なる)に入学した。母が東京出身であったこともあり、近畿方言を話せず浮いた存在であった。しかし、幼いころから見よう見まねで描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学3年生のときに、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み[10]、小学5年生のころには長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師のあいだでも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという