この想いでサイトは、私たちの愛する人 ペギー 葉山(歌手)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:森 シゲ子(もり - こ)(ペギー 葉山)
戒名:桜勲院唱誉妙繁清大姉
墓地:弘経寺墓地:弘経寺 (〒302-0023 茨城県取手市白山2丁目9−28) 日本
ペギー葉山( - はやま、本名:森 シゲ子(もり - こ)[注 1]、旧姓:小鷹狩 シゲ子(こたかり - こ)、1933年11月9日 - 2017年4月12日)は、日本の女性歌手、タレント。社団法人日本歌手協会7代目会長(後に名誉会長)。
東京都新宿区出身。青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)卒業。1952年にキングレコードよりレコードデビュー。
幼少時から歌が好きだったことから、青山学院中学部(現・青山学院中等部)在学中に内田るり子に師事し声楽を習い、音大進学を志す。しかし次第にFEN放送(現・AFN)から流れるアメリカのポピュラー音楽へ関心を深めていき、青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)2年の時に映画『我が道を往く』を観た際、劇中で主演のビング・クロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感動、クラシックからポピュラー・ジャズへの転向を決意。
ほどなく友人の紹介から進駐軍のキャンプで歌い始め、その歌声とセンスを見込んだティーブ・釜萢の口利きで、当時の一流ビッグバンドである渡辺弘とスター・ダスターズの三代目専属歌手として活躍する。
学校卒業後の翌1952年11月にキングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し、レコードデビュー。1954年には「第5回NHK紅白歌合戦」に紅白歌合戦初出場を果たす。渡辺弘とスター・ダスターズの専属解除後の1955年2月には初渡米。各地で歌い、盛況を博す。
1958年、ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものにする。
1960年、オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演する。
同年の8月にはロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれる。この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。帰国後、自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌「ドレミの歌」をペギー自身の訳詞で紹介した。ペギーの訳詞・歌唱による「ドレミの歌」はNHK「みんなのうた」でも使用され、音楽の教科書にも掲載されるなど、国民に広く知られている。
しかし、生来病弱であったことに加え、その人気による過密スケジュールから、1963年の春に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされたが、病気療養中に「ラ・ノビア」「爪」もヒットしたことも幸いし、ブランクをものともせず無事復帰した。また、復帰翌年の1964年には「学生時代」がロングセラーとなり、人気の健在ぶりを示した。
1965年に俳優の根上淳と結婚、1968年には長男を出産している。甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕であり、THE CHAPPYSがデビューする際に雅裕氏はペギーの自宅へ挨拶に赴き、彼が持参したレコード会社の企画書に目を通しデビューを喜んだ。根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、1998年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けた。
1974年には司馬遼太郎に続き、2人目となる高知県名誉県人の称号を贈られた[1]。また、ペギーが歌手生活60周年を迎えた2012年には高知市のはりまや橋公園に「南国土佐を後にして」の歌碑が設置され、ペギーも除幕式に出席した[2]。よさこい祭りの全国コンクール(毎年8月12日)においては、葉山の名前を冠したペギー葉山賞が優秀チームに贈賞されている。
1991年、『It's Been A Long Long Time』(キングレコード)の録音でハンク・ジョーンズ、ケン・ペプロウスキーと共演した。
1995年に紫綬褒章、2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章。
2007年6月からは、青木光一の後を継ぎ、社団法人日本歌手協会7代目初の女性会長に就任し、2010年6月末日まで務めた。一般社団法人移行後は理事職。2014年6月には、田端義夫・青木光一に次ぎ3人目となる名誉会長に就任している。
2010年に発売した「夜明けのメロディー」(ラジオ深夜便のうた)は、『ラジオ深夜便』で初オンエアされて以来リスナーを中心に高く評価され、1971年発売の「雲よ風よ空よ」以来約40年ぶりのオリコンチャートインを果たす快挙を成し遂げた。また、登場回数も30回にせまりロングランも記録している。そのほか、NHK「みんなのうた」などでも歌声を聴かせている。
歌手としての活動のほか、日本歌手協会役員としての業務、亡夫の介護体験をもとにした講演など多方面で活動。デビューから60年を迎えてもなお、第一線で活躍し続けた。
作品[編集]
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:森 シゲ子(もり - こ)(ペギー 葉山)
戒名:桜勲院唱誉妙繁清大姉
墓地:弘経寺墓地:弘経寺 (〒302-0023 茨城県取手市白山2丁目9−28) 日本
ペギー葉山( - はやま、本名:森 シゲ子(もり - こ)[注 1]、旧姓:小鷹狩 シゲ子(こたかり - こ)、1933年11月9日 - 2017年4月12日)は、日本の女性歌手、タレント。社団法人日本歌手協会7代目会長(後に名誉会長)。
東京都新宿区出身。青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)卒業。1952年にキングレコードよりレコードデビュー。
幼少時から歌が好きだったことから、青山学院中学部(現・青山学院中等部)在学中に内田るり子に師事し声楽を習い、音大進学を志す。しかし次第にFEN放送(現・AFN)から流れるアメリカのポピュラー音楽へ関心を深めていき、青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)2年の時に映画『我が道を往く』を観た際、劇中で主演のビング・クロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感動、クラシックからポピュラー・ジャズへの転向を決意。
ほどなく友人の紹介から進駐軍のキャンプで歌い始め、その歌声とセンスを見込んだティーブ・釜萢の口利きで、当時の一流ビッグバンドである渡辺弘とスター・ダスターズの三代目専属歌手として活躍する。
学校卒業後の翌1952年11月にキングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し、レコードデビュー。1954年には「第5回NHK紅白歌合戦」に紅白歌合戦初出場を果たす。渡辺弘とスター・ダスターズの専属解除後の1955年2月には初渡米。各地で歌い、盛況を博す。
1958年、ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものにする。
1960年、オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演する。
同年の8月にはロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれる。この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。帰国後、自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌「ドレミの歌」をペギー自身の訳詞で紹介した。ペギーの訳詞・歌唱による「ドレミの歌」はNHK「みんなのうた」でも使用され、音楽の教科書にも掲載されるなど、国民に広く知られている。
しかし、生来病弱であったことに加え、その人気による過密スケジュールから、1963年の春に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされたが、病気療養中に「ラ・ノビア」「爪」もヒットしたことも幸いし、ブランクをものともせず無事復帰した。また、復帰翌年の1964年には「学生時代」がロングセラーとなり、人気の健在ぶりを示した。
1965年に俳優の根上淳と結婚、1968年には長男を出産している。甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕であり、THE CHAPPYSがデビューする際に雅裕氏はペギーの自宅へ挨拶に赴き、彼が持参したレコード会社の企画書に目を通しデビューを喜んだ。根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、1998年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けた。
1974年には司馬遼太郎に続き、2人目となる高知県名誉県人の称号を贈られた[1]。また、ペギーが歌手生活60周年を迎えた2012年には高知市のはりまや橋公園に「南国土佐を後にして」の歌碑が設置され、ペギーも除幕式に出席した[2]。よさこい祭りの全国コンクール(毎年8月12日)においては、葉山の名前を冠したペギー葉山賞が優秀チームに贈賞されている。
1991年、『It's Been A Long Long Time』(キングレコード)の録音でハンク・ジョーンズ、ケン・ペプロウスキーと共演した。
1995年に紫綬褒章、2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章。
2007年6月からは、青木光一の後を継ぎ、社団法人日本歌手協会7代目初の女性会長に就任し、2010年6月末日まで務めた。一般社団法人移行後は理事職。2014年6月には、田端義夫・青木光一に次ぎ3人目となる名誉会長に就任している。
2010年に発売した「夜明けのメロディー」(ラジオ深夜便のうた)は、『ラジオ深夜便』で初オンエアされて以来リスナーを中心に高く評価され、1971年発売の「雲よ風よ空よ」以来約40年ぶりのオリコンチャートインを果たす快挙を成し遂げた。また、登場回数も30回にせまりロングランも記録している。そのほか、NHK「みんなのうた」などでも歌声を聴かせている。
歌手としての活動のほか、日本歌手協会役員としての業務、亡夫の介護体験をもとにした講演など多方面で活動。デビューから60年を迎えてもなお、第一線で活躍し続けた。
作品[編集]
- ケ・セラ・セラ(ドリス・デイのカバー)
- 南国土佐を後にして/ドクトル・ジバンヌ(1959年4月10日臨発、キングレコード、EB-164)- 200万枚を越す大ヒット。発売からほぼ1年で約100万枚を売る大ヒット[18]。第40師団歩兵第236連隊の歌のリメイク
- 学生時代/鏡(BS-144)
- 島原の子守唄 - もともとは島倉千代子が歌っていたものだがペギー葉山のカバーによって世に知られるようになった
- 大人とこども(原題はフランス語: L'Homme et l'Enfant)- エディ・コンスタンティーヌとタニア・コンスタンティーヌが歌った同名映画の主題歌のカバー。1962年当時同じキングの童謡歌手だった庄司淳と歌っていた。「大人と子供」とも表記される。原曲の歌詞は大人の男性と子供の対話だが、ペギー版はママと子供の対話になっている)
- ドレミのうた(『サウンド・オブ・ミュージック』より、日本語訳詞も自身の手によるもの。もともとは「大人とこども」のB面だが、A面をはるかに凌ぐ大ヒット。「ドレミの歌」「ドレミの唄」とも表記される。『みんなのうた』でも使われた)
- ドミノ(アンドレ・クラヴォーのカバー)
- かあさんの歌
- ウンパッパ(『オリバー!』より、『みんなのうた』でも使われた)
- ドミニク(スール・スーリールのカバー)
- ラ・ノビア(SS-19)- トニー・ダララ、コニー・フランシスなどのカバー
- 算数チャチャチャ(『みんなのうた』)
- 町の小さな靴屋さん
- ラ・マンマ
- 琵琶湖周航の歌/二つの岸(1962年、日本ビクター、BS-653)- 加藤登紀子が吹き込んだ盤が有名だが、1962年にペギーもこの曲を吹込みヒットしている
- ブリデント
- 爪
- マンボ・イタリアーノ
- 空よ雲よ風よ(1971年1月21日、キングレコード、BS-312)
- ウルトラの母のバラード(藤田淑子のカバー。キングレコードから発売。)
- 渋谷・愛の街(1978年11月、渋谷区の区歌)
- 我が心に歌えば
- 神様がくれた愛のみち(2007年)- 『歌手生活55周年記念曲』
- 夜明けのメロディー(2010年)-『ラジオ深夜便』の曲。39年ぶりにオリコンにチャートイン
- 結果生き上手(2012年)- 『歌手生活60周年記念曲』
- おもいでの岬(2016年)- 『ラジオ深夜便』の曲
- シング - カーペンターズのカバー曲
- 白い風にのって/冒険コロボックル(冒険コロボックル) etc.
- ※注:このサイトは、ペギー葉山に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝