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本名:柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう)
戒名:蒼岳院殿雋誉円月錬哲居士
墓地:傳通院、日本
関連リンク
WIKI:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E...
日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名齋藤錬三郎(さいとう れんざぶろう)。 代表作に『眠狂四郎』『赤い影法師』『御家人斬九郎』『三国志 英雄ここにあり』などがあり、剣客ブームを巻き起こし、時代小説に新風を送った。「シバレン(柴錬)」の通称でも呼ばれた。
生涯と作品[編集]生い立ち・戦前[編集]岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれる。父は日本画家でもあった。3歳で父を亡くしたが、遺された漢籍に親しみ、唐宋詩人の詩を愛吟して育った[1]。
鶴山尋常小学校を卒業後、1929年に旧制岡山県第二岡山中学校に進学。校友誌に詩や短篇を発表する。親の薦めもあり、始めは医学部に進学することを考え、上京して慶應義塾大学医学部予科を受験して入学したが、半年後に文学部予科へ移る。慶應義塾大学予科3学年の時に、『十円紙幣』を君尾哲三のペンネームで『三田文學』に発表する。1940年に、庄内藩の齋藤家の出身である齋藤栄子(清河八郎の妹・辰の孫)と結婚、齋藤家の婿養子となり、齋藤錬三郎と名乗る。同年、慶應義塾大学文学部支那文学科卒業。在学中から魯迅に傾倒し、卒業論文は『魯迅論』、その後も『三田文學』に小説「魯迅幼年期」(1940年)や、魯迅に関する論考を発表している。
1951年6月に『三田文學』に発表した『デス・マスク』が第25回芥川賞・第25回直木賞候補に入る。翌年『イエスの裔』で第26回直木賞を受賞した。松本清張らと共に、賞を取ったものの食えない時期が長く、この頃の注文原稿は、受賞後に『オール讀物』に書いた講談ネタの「新説河内山宗俊」「カステラ東安」の他は、地方新聞に書いた恋愛もの、『オール讀物』での実話風読み物や、『小説公園』『面白倶楽部』での現代小説であり、柴田にとって暗中模索の時期となった。1954年に『週刊タイムス』からの依頼で初の時代長編小説『江戸群盗伝』を連載し、ストーリーテラーとしての才能を意識する。
1956年から、創刊されたばかりの『週刊新潮』に連載された『眠狂四郎』シリーズでは、戦後を代表するニヒル剣士の眠狂四郎を登場させ、読み切りという斬新な手法をとった連載手法と通俗的な要素を織り込み、『柳生武芸帳』の五味康祐と共に剣豪小説の一大ブームを巻き起こし、「剣豪作家」のイメージが定着した。1960年から『週刊文春』に連載された忍者もの『赤い影法師』や、1962年から『オール讀物』で連載した、明治末期から人気を得た書き講談シリーズ立川文庫に擬した「柴練立川文庫シリーズ」では伝奇小説としても高く評価され、また荒唐無稽であると同時に、講談ネタのヒーロー像が「現代人の自虐意識の現れ」へと変遷しているとされた[4]。また同時期に『剣は知っていた』『血汐笛』などの恋愛を主体にした時代物も手がけた。中国ものでは『柴錬三国志』『柴練水滸伝』『毒婦四千年』などがあり、1969年に『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞した。現代小説では『チャンスは三度ある』などがある。
1966年から1977年まで、直木賞の選考委員を務める。柴田が選考委員をしていたこの間の受賞者には、五木寛之、野坂昭如、陳舜臣、井上ひさし、藤沢周平などがいる。他、小説現代新人賞の選考委員も務めた。次いで今東光と共に「文壇野良犬会」を結成し、水間寺での住職権限を争う大乱闘や梶山季之の急逝における葬儀争奪戦での役回りなど、數山の僧兵かと見まがうがごときの活動も繰り広げた[5]。この野良犬の会には、黒岩重吾、吉行淳之介、陳舜臣、田中小実昌、野坂昭如、戸川昌子、長部日出雄、井上ひさし、藤本義一などが参加した。NHKテレビの人形劇『真田十勇士』(1975-77年放映)の原作も書き下ろした。
作品一覧
〇 幽霊紳士 〇 心形刀 〇 江戸っ子侍
〇 赤い影法師 〇 図々しい奴 〇 戦国施風記
〇 おれは侍だ 〇 三人の女 〇 若くて、悪くて、凄いこいつら
〇 運命峠 〇 孤剣 〇 孤独な剣客
〇 人間の噂 〇 顔十郎罷り通る 〇 猿飛佐助
〇 真田幸村 〇 忍者からす 〇 柳生但馬守
〇 毒婦伝奇 〇 裏返し忠臣蔵 〇 剣と旗と城
〇 江戸八百人町物語 〇 おれは大物 〇 徳川太平記 男は度胸
〇 わしは、わしの道を行く 〇 女の敵 〇 狼眼流左近
〇 霞の半兵衛 剣鬼シリーズ 〇 度胸時代 〇 殺生関白
〇 日本剣客伝 〇 大将 〇 貧乏同心御用帳
〇 決闘者 宮本武蔵 〇 柴田錬三郎の無頼殺法
〇 眠狂四郎 シリーズ<1~9編> その他多数あり
映画[編集]
吉備路文学館 岡山市北区南方3-5-35
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本名:柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう)
戒名:蒼岳院殿雋誉円月錬哲居士
墓地:傳通院、日本
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日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名齋藤錬三郎(さいとう れんざぶろう)。 代表作に『眠狂四郎』『赤い影法師』『御家人斬九郎』『三国志 英雄ここにあり』などがあり、剣客ブームを巻き起こし、時代小説に新風を送った。「シバレン(柴錬)」の通称でも呼ばれた。
生涯と作品[編集]生い立ち・戦前[編集]岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれる。父は日本画家でもあった。3歳で父を亡くしたが、遺された漢籍に親しみ、唐宋詩人の詩を愛吟して育った[1]。
鶴山尋常小学校を卒業後、1929年に旧制岡山県第二岡山中学校に進学。校友誌に詩や短篇を発表する。親の薦めもあり、始めは医学部に進学することを考え、上京して慶應義塾大学医学部予科を受験して入学したが、半年後に文学部予科へ移る。慶應義塾大学予科3学年の時に、『十円紙幣』を君尾哲三のペンネームで『三田文學』に発表する。1940年に、庄内藩の齋藤家の出身である齋藤栄子(清河八郎の妹・辰の孫)と結婚、齋藤家の婿養子となり、齋藤錬三郎と名乗る。同年、慶應義塾大学文学部支那文学科卒業。在学中から魯迅に傾倒し、卒業論文は『魯迅論』、その後も『三田文學』に小説「魯迅幼年期」(1940年)や、魯迅に関する論考を発表している。
1951年6月に『三田文學』に発表した『デス・マスク』が第25回芥川賞・第25回直木賞候補に入る。翌年『イエスの裔』で第26回直木賞を受賞した。松本清張らと共に、賞を取ったものの食えない時期が長く、この頃の注文原稿は、受賞後に『オール讀物』に書いた講談ネタの「新説河内山宗俊」「カステラ東安」の他は、地方新聞に書いた恋愛もの、『オール讀物』での実話風読み物や、『小説公園』『面白倶楽部』での現代小説であり、柴田にとって暗中模索の時期となった。1954年に『週刊タイムス』からの依頼で初の時代長編小説『江戸群盗伝』を連載し、ストーリーテラーとしての才能を意識する。
1956年から、創刊されたばかりの『週刊新潮』に連載された『眠狂四郎』シリーズでは、戦後を代表するニヒル剣士の眠狂四郎を登場させ、読み切りという斬新な手法をとった連載手法と通俗的な要素を織り込み、『柳生武芸帳』の五味康祐と共に剣豪小説の一大ブームを巻き起こし、「剣豪作家」のイメージが定着した。1960年から『週刊文春』に連載された忍者もの『赤い影法師』や、1962年から『オール讀物』で連載した、明治末期から人気を得た書き講談シリーズ立川文庫に擬した「柴練立川文庫シリーズ」では伝奇小説としても高く評価され、また荒唐無稽であると同時に、講談ネタのヒーロー像が「現代人の自虐意識の現れ」へと変遷しているとされた[4]。また同時期に『剣は知っていた』『血汐笛』などの恋愛を主体にした時代物も手がけた。中国ものでは『柴錬三国志』『柴練水滸伝』『毒婦四千年』などがあり、1969年に『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞した。現代小説では『チャンスは三度ある』などがある。
1966年から1977年まで、直木賞の選考委員を務める。柴田が選考委員をしていたこの間の受賞者には、五木寛之、野坂昭如、陳舜臣、井上ひさし、藤沢周平などがいる。他、小説現代新人賞の選考委員も務めた。次いで今東光と共に「文壇野良犬会」を結成し、水間寺での住職権限を争う大乱闘や梶山季之の急逝における葬儀争奪戦での役回りなど、數山の僧兵かと見まがうがごときの活動も繰り広げた[5]。この野良犬の会には、黒岩重吾、吉行淳之介、陳舜臣、田中小実昌、野坂昭如、戸川昌子、長部日出雄、井上ひさし、藤本義一などが参加した。NHKテレビの人形劇『真田十勇士』(1975-77年放映)の原作も書き下ろした。
作品一覧
〇 幽霊紳士 〇 心形刀 〇 江戸っ子侍
〇 赤い影法師 〇 図々しい奴 〇 戦国施風記
〇 おれは侍だ 〇 三人の女 〇 若くて、悪くて、凄いこいつら
〇 運命峠 〇 孤剣 〇 孤独な剣客
〇 人間の噂 〇 顔十郎罷り通る 〇 猿飛佐助
〇 真田幸村 〇 忍者からす 〇 柳生但馬守
〇 毒婦伝奇 〇 裏返し忠臣蔵 〇 剣と旗と城
〇 江戸八百人町物語 〇 おれは大物 〇 徳川太平記 男は度胸
〇 わしは、わしの道を行く 〇 女の敵 〇 狼眼流左近
〇 霞の半兵衛 剣鬼シリーズ 〇 度胸時代 〇 殺生関白
〇 日本剣客伝 〇 大将 〇 貧乏同心御用帳
〇 決闘者 宮本武蔵 〇 柴田錬三郎の無頼殺法
〇 眠狂四郎 シリーズ<1~9編> その他多数あり
映画[編集]
- 『第8監房』日活、1956年、阿部豊監督、三橋達也、月丘夢路
- 『源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流』1957年、加藤泰監督、中村錦之助、田代百合子
- 『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』松竹、1957年、倉橋良介監督、近衛十四郎、山鳩くるみ
- 『「夢に罪あり」より 処女』松竹大船、1957年、田畠恒男監督、浅茅しのぶ、田代百合子
- 『抜打ち浪人』東映、1957年、佐伯清監督、大友柳太朗、伊藤雄之助
- 『剣は知っていた 紅顔無双流』東映、1958年、内出好吉監督、中村錦之助、大川恵子
- 『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』東映、1958年、加藤泰監督、中村錦之助、丘さとみ
- 『美男城』東映、1958年、佐々木康監督、萬屋錦之介、丘さとみ
- 『銀座の沙漠』日活、1958年、阿部豊監督、長門裕之、南田洋子
- 『江戸群盗傳』松竹、1958年、福田晴一監督、近衛十四郎、北上弥太朗
- 『男が爆発する』日活、1959年、舛田利雄監督、石原裕次郎、北原三枝
- 『血汐笛』東映京都、1959年、小沢茂弘監督、東千代之介、大河内傳次郎
- 『血太郎ひとり雲』東映、1959年、井沢雅彦監督、中村嘉葎雄、中里阿津子
- 『暁の地平線』松竹大船、1959年、井上和男監督、東野英治郎、佐田啓二
- 『遊太郎巷談』大映京都、1959年、田坂勝彦監督、市川雷蔵、浦路洋子
- 『赤い影法師』東映、1961年、小沢茂弘監督、大川橋蔵、木暮実千代
- 『図々しい奴』松竹、1961年、生駒千里監督、杉浦直樹、高千穂ひづる
- 『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』東映、1962年、伊藤大輔監督、萬屋錦之介、大川恵子
- 『斬る』大映、1962年、三隅研次監督、市川雷蔵、藤村志保
- 『若くて、悪くて、凄いこいつら』日活、1962年、中平康監督、高橋英樹、和田浩治
- 『おれは侍だ 命を賭ける三人』東映、1963年、沢島正継監督、大友柳太朗、里見浩太朗
- 『図々しい奴』東映、1964年、瀬川昌治監督、谷啓、佐久間良子
- 『続・図々しい奴』東映、1964年、瀬川昌治監督、谷啓、佐久間良子
- 『剣鬼』大映、1965年、三隅研次監督、市川雷蔵、姿美千子
- 『夜のバラを消せ』日活、1966年、舛田利雄監督、石原裕次郎、由美かおる
- 『怪談残酷物語』松竹、1968年、長谷和夫監督、川口小枝、田村正和
- 『孤剣は折れず 月影一刀流』東映、1969年、佐々木康監督、鶴田浩二、桜町弘子
- 『栄光への反逆』東宝、1970年、中平康監督、黒沢年雄、松原智恵子(原作『生命ぎりぎり物語』)
- 『蝦夷館の決闘』東宝、1970年、古澤憲吾監督、加山雄三、三國連太郎
- 『将軍と姫と浪人』NET、1959年
- 『図々しい奴』TBS、1963年、丸井太郎、杉浦直樹
- 『われら九人の戦鬼』NET、1966年
- 『男は度胸』NHK、1970-71年(原作『徳川太平記』)
- 『おらんだ左近事件帖』フジテレビ、1971-72年、高橋英樹、星由里子
- 『度胸時代』TBSテレビ、1974年
- 『運命峠』フジテレビ、1993年、松平健、三浦友和
- 『徳川風雲録 八代将軍吉宗』テレビ東京、2008年、中村雅俊、内田朝陽(原作『徳川太平記~吉宗と天一坊~』集英社文庫)
吉備路文学館 岡山市北区南方3-5-35
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