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本名:Françoise Delphine Quoirez(Françoise Sagan)
墓地:Seuzac Village Cemetery Cajarc, Departement du Lot, Midi-Pyrénées, France
(英語の詳細)
フランスの小説家、脚本家。本名はフランソワーズ・コワレ(Françoise Quoirez)。ペンネームは、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の登場人物 「Princesse de Sagan」から取られた。
略歴[編集]ロット県フィジャック近郊カジャルク(フランス語版)で生まれた。父親は大手電気会社アルカテル・ルーセントの前身(Compagnie Générale d'Électricité=CGE)の重役、母親は地主というブルジョワ家庭で動物に囲まれて育った。ニックネームは「キキ」(Kiki)だった。一家は第二次世界大戦の間(1939年-1945年)、初期はリヨン、それからドーフィネ地方ヴェルコール(fr)に疎開する[1]。
戦後、家族はパリ17区マルゼルブ大通り(fr)167番地の自宅に戻った[2]。キキは学校生活に馴染めず、17区内の私立ルイーズ=ド=ベティニ校(Cours Louise-de-Bettignies)を3か月も経たずに退学になり8区の私立クヴァン・デ・ゾワゾー女子寄宿学校[注釈 1]に入れられ、さらにドーフィネ地方グルノーブル近郊のカトリック系学校3校で転校を繰り返した頃は「非常に良い子」で過ごした[3][4][5][6]。その後パリに戻ると8区の私立アトメール校(fr)在学中、2度目の受験でバカロレアに合格すると1952年秋からソルボンヌ大学に入学。しかし在籍中は無関心な学生で卒業はしなかったものの[7]、この頃から処女作の『悲しみよこんにちは』を書き始めた[8]。
サガンは「文学界のマドモワゼル・シャネル」とベルナール・フランク(fr ジャーナリスト)に呼ばれ、そのフランクや上述の親友フロランス・マルロー(映画助監督)ら同世代や、ソーシャライトでダンサーのジャック・シャゾット (fr 1928年-1993年)、歌手ジュリエット・グレコ (1927年-2020年) とその妹のシャルロット・エイヨー(Charlotte Aillaud[注釈 3])、あるいはイタリア人の興行師マッシモ・ガルジア(fr 1940年生まれ)らと親密につきあい、取り巻きに囲まれて過ごした。莫大な収入は服や宝石、原稿など周囲の者にとても寛大に買い与えては浪費し、息子ドニにろくに残さなかった。
アメリカで旅行を楽しみ、しばしばトルーマン・カポーティとエヴァ・ガードナーと同道しており、1957年には自動車事故で重傷を負った。結婚は2度、相手はガイ・シェーラーおよびボブ・ウェストホフである(それぞれ1958-60年、1962-63年)。そして、どちらとも離婚した。パリ16区フォッシュ大通り(fr)界隈に居住し、一人息子は写真家のドニ・ウェストホフ(Denis Westhof、1963年 - )である。
若年期に成功しサン=ジェルマン=デ=プレ界隈で文学者ら名士と交遊した。人々はサガンを小説のキャラクターと混同し重ね合わせ、彼女はすぐに、裕福でのんき、カジュアルで性的に解放された世代の「女性版ジェームズ・ディーン」のような象徴になった。
2002年2月の脱税事件「エルフ事件」の影響もあって、多額の罰金や追徴課税を支払う羽目になり、パリ市内のユニヴェルシテ通りの家からオルセー河岸通りの小さめの部屋へ、さらにリール通り73番地へとパリ7区内を転々とした。また晩年は、ノルマンディ地方のカルヴァドス県リジュー郡エクモヴィル(フランス語版)の別荘「ル・マノワール・デュ・ブルイユ」(Le Manoir du Breuil ヴィラないしパヴィヨン、広壮な別宅)にこもりきりで、オンフルールの病院で心臓疾患のため69歳で死去した。
2008年には、伝記映画『サガン -悲しみよ こんにちは-』がシルヴィー・テスチュー主演、ディアーヌ・キュリス監督で作られ、サガンになりきったテスチューはセザール賞主演女優賞候補となった。
主な著書[編集]小説[編集]
本名:Françoise Delphine Quoirez(Françoise Sagan)
墓地:Seuzac Village Cemetery Cajarc, Departement du Lot, Midi-Pyrénées, France
(英語の詳細)
フランスの小説家、脚本家。本名はフランソワーズ・コワレ(Françoise Quoirez)。ペンネームは、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の登場人物 「Princesse de Sagan」から取られた。
略歴[編集]ロット県フィジャック近郊カジャルク(フランス語版)で生まれた。父親は大手電気会社アルカテル・ルーセントの前身(Compagnie Générale d'Électricité=CGE)の重役、母親は地主というブルジョワ家庭で動物に囲まれて育った。ニックネームは「キキ」(Kiki)だった。一家は第二次世界大戦の間(1939年-1945年)、初期はリヨン、それからドーフィネ地方ヴェルコール(fr)に疎開する[1]。
戦後、家族はパリ17区マルゼルブ大通り(fr)167番地の自宅に戻った[2]。キキは学校生活に馴染めず、17区内の私立ルイーズ=ド=ベティニ校(Cours Louise-de-Bettignies)を3か月も経たずに退学になり8区の私立クヴァン・デ・ゾワゾー女子寄宿学校[注釈 1]に入れられ、さらにドーフィネ地方グルノーブル近郊のカトリック系学校3校で転校を繰り返した頃は「非常に良い子」で過ごした[3][4][5][6]。その後パリに戻ると8区の私立アトメール校(fr)在学中、2度目の受験でバカロレアに合格すると1952年秋からソルボンヌ大学に入学。しかし在籍中は無関心な学生で卒業はしなかったものの[7]、この頃から処女作の『悲しみよこんにちは』を書き始めた[8]。
サガンは「文学界のマドモワゼル・シャネル」とベルナール・フランク(fr ジャーナリスト)に呼ばれ、そのフランクや上述の親友フロランス・マルロー(映画助監督)ら同世代や、ソーシャライトでダンサーのジャック・シャゾット (fr 1928年-1993年)、歌手ジュリエット・グレコ (1927年-2020年) とその妹のシャルロット・エイヨー(Charlotte Aillaud[注釈 3])、あるいはイタリア人の興行師マッシモ・ガルジア(fr 1940年生まれ)らと親密につきあい、取り巻きに囲まれて過ごした。莫大な収入は服や宝石、原稿など周囲の者にとても寛大に買い与えては浪費し、息子ドニにろくに残さなかった。
アメリカで旅行を楽しみ、しばしばトルーマン・カポーティとエヴァ・ガードナーと同道しており、1957年には自動車事故で重傷を負った。結婚は2度、相手はガイ・シェーラーおよびボブ・ウェストホフである(それぞれ1958-60年、1962-63年)。そして、どちらとも離婚した。パリ16区フォッシュ大通り(fr)界隈に居住し、一人息子は写真家のドニ・ウェストホフ(Denis Westhof、1963年 - )である。
若年期に成功しサン=ジェルマン=デ=プレ界隈で文学者ら名士と交遊した。人々はサガンを小説のキャラクターと混同し重ね合わせ、彼女はすぐに、裕福でのんき、カジュアルで性的に解放された世代の「女性版ジェームズ・ディーン」のような象徴になった。
2002年2月の脱税事件「エルフ事件」の影響もあって、多額の罰金や追徴課税を支払う羽目になり、パリ市内のユニヴェルシテ通りの家からオルセー河岸通りの小さめの部屋へ、さらにリール通り73番地へとパリ7区内を転々とした。また晩年は、ノルマンディ地方のカルヴァドス県リジュー郡エクモヴィル(フランス語版)の別荘「ル・マノワール・デュ・ブルイユ」(Le Manoir du Breuil ヴィラないしパヴィヨン、広壮な別宅)にこもりきりで、オンフルールの病院で心臓疾患のため69歳で死去した。
2008年には、伝記映画『サガン -悲しみよ こんにちは-』がシルヴィー・テスチュー主演、ディアーヌ・キュリス監督で作られ、サガンになりきったテスチューはセザール賞主演女優賞候補となった。
主な著書[編集]小説[編集]
- 『悲しみよこんにちは』 Bonjour Tristesse (1954年)
- 『ある微笑』Un certain sourire (en) (1956年)
- 朝吹登水子訳 新潮社 1956年 のち文庫
- 『一年ののち』Dans un mois, dans un an (1957年)
- 朝吹登水子訳 新潮社 1958年 のち文庫
- 『ブラームスはお好き』Aimez-vous Brahms ? (1959年)
- 朝吹登水子訳 世界文学全集 新潮社、1960年 のち文庫
- 『すばらしい雲』Les Merveilleux Nuages (1961年)
- 朝吹登水子訳 新潮社 1962年 のち文庫
- 『熱い恋』La Chamade (en) (1965年)
- 朝吹登水子訳 新潮社 1967年 のち文庫
- 『優しい関係』Le Garde du cœur (fr) (1968年)
- 朝吹登水子訳 新潮社 1969年 のち文庫
- 『冷たい水の中の小さな太陽』Un peu de soleil dans l'eau froide (fr) (1969年)
- 朝吹登水子訳 新潮社 1970年 のち文庫
- 『心の青あざ』Des Bleus à l'ame (fr) (1972年)
- 朝吹登水子訳 新潮社 1973年 のち文庫
- 『幸福を奇数に賭けて』 安堂信也訳 新潮文庫 1974年
- 『失われた横顔』 朝吹登水子訳 新潮社 1975年 のち文庫
- 『草の中のピアノ』 安堂信也訳 新潮文庫 1976年
- 『時おりヴァイオリンが……』 安堂信也訳 新潮文庫 1976年
- 『乱れたベッド』Le Lit défait (1977年)
- 朝吹登水子訳 新潮社 1978年11月 のち文庫
- 『愛は遠い明日』 朝吹登水子訳 新潮社 1982年4月 のち文庫
- 『ボルジア家の黄金の血』- Le Sang doré des Borgia (1977年)
- 鷲見洋一訳 新潮社 1986年1月 のち文庫
- 『厚化粧の女』La Femme fardée (fr) (1981年)
- 『愛の中のひとり』 朝吹登水子訳 新潮社 1986年7月 のち文庫
- 『夏に抱かれて』 朝吹由紀子訳 新潮社 1988年8月 のち文庫
- 『愛は束縛』 河野万里子訳 新潮社 1991年9月 のち文庫
- 『水彩画のような血』 朝吹由紀子訳 新潮社 1991年3月 のち文庫
- 『愛をさがして』 朝吹由紀子訳 新潮社 1997年6月
- 『逃げ道』 河野万里子訳 新潮社 1997年10月 のち文庫 etc.
主な映画化作品[編集]
- 『悲しみよこんにちは』(1957年、アメリカ)
- 『ある微笑』(1958年、アメリカ)
- 『さよならをもう一度』(1961年、アメリカ) 原作は『ブラームスはお好き』
- 『別離』(1968年、フランス) 原作は『熱い恋』
- 『水の中の小さな太陽』(1971年、フランス) 原作は『冷たい水の中の小さな太陽』
- 『夏に抱かれて』De guerre lasse (1987年、フランス)
- 『厚化粧の女』La Femme fardée (1990年、フランス)[17] etc.
映画「さよならをもう一度」より
フランソワーズ・サガンのお墓
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