「小さな利益のためにワシを使ってはならん」
- 自由主義の立場にたつ硬骨の政治家として知られ、「憲政の神様」といわれた尾崎行雄とならぶ存在だった。 身長約 150cmと小柄で 「ネズミの殿様」とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された。 政党人としては珍しく親分子分をもたず、硬骨な自由主義者で、戦時下の反軍演説はつねに民衆の支持を得た。
※選挙区のために働かない珍しい政治家であり、地元の陳情者がくると 「ワシは国政を論ずる代議士である。 兵庫県の小さな利益のためにワシを使ってはならん」と追い返したという。それにもかかわらず地元からの人気は絶大で、没後20年ほども経った後でも選挙で 十数票入ったという。 - 漫画家のさいとう・たかを (1936-2021)の本名は“齊藤隆夫”で完全に同姓同名。 1936年といえば二・二六事件が起きた年であ り、5月7日に国会で粛軍演説があった。同年11月3日に生まれた赤ん坊に「隆夫」と名付けた両親は、半年前の勇気ある演説に感銘 を受けたからではないだろうか。
経歴(実績)
- 1925年 (55歳) 3月2日、衆議院本会議で2時間以上の大演説「普通選挙賛成演説」を行った。 1936年 (66歳) 2月26日、陸軍の皇道派青年将校らが国家改造・統制派打倒を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸などを襲撃したクーデター「二・二六事件」が勃発。 内大臣斎藤実 大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎らが殺害され、永田町一帯を占拠 された。29日に無血で鎮定。岡田内閣は総辞職して広田内閣が組閣された。ところが、二・二六事件の責任を問うはずの内閣なのに、 広田が外務大臣に吉田茂を指名すると、軍部は吉田が自由主義的であるとして却下した。軍の強権は目に余り、民主主義の危機に斎藤 は立ち上がる。舞台は帝国議会だ。
- 事件後の5月7日の本会議(第69 特別議会)で、新内閣の寺内寿一陸軍大臣に対する質問演説に際し、 斎藤は二・二六事件における 軍当局の責任を追及した 1時間25分に及ぶ約2万字の「粛軍演説」をおこない、世論の喝采をあびた 演説前半で広田内閣の政治改革について質問を行った後、 演説後半では、青年将校たちの憂国の想いは理解できるとしたうえで、彼ら この視野の狭さ、右傾化思想の単純さを批判した。 そして軍人の政治介入を批判するとともに、 急進的な青年将校を野放しにした軍の無責任を問い、五・一五事件に対する軍の甘い対応が事件の遠因となったのではないか、この事件を裏で糸を引いた軍部首脳部がいな かったのか、と人々が言いたくても言えなかったことを指摘した。 斎藤は軍の綱紀粛正を強く要請するとともに、軍部に擦り寄っていく 政治家に対しても強烈な批判を浴びせており、この演説は「議会史の花」と呼ばれた。
- 「苟(いやしく)も立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なる所の政治上の争を為
- すべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てるが如きは、立憲政治家として許すべからざることである。況(いわん)や政治圏外に ある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、是(これ)は政治家の恥辱であり堕落であり、また実に卑怯千万 の振舞であるのである」 「政争の末、遂には武力に愬(うった)えて自己の主張を貫徹するに至るは自然の勢いでありまして、 事茲(ここ)に至れば、立憲政治の破 滅は言うに及ばず、国家動乱 武人専制の端を開くものでありますからして、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります」
- 軍部に逆らえば首相でさえ殺害される時代であり、命を捨てる覚悟なしにできない演説だった。新聞はいずれも第一面に大文字の見出しを掲げ、歴史的大演説であると激賞した。
- 翌日の『報知新聞』は興奮気味に記者が目撃した出来事を伝えている。
- 「斎藤君が起った。 決死の咆哮1時間25分 --非常時を缶詰にした議事堂はゆらいだ。議員も傍聴人も大臣も、あらゆる人の耳は震え た。7日の非常時議会は遂に斉藤隆夫氏の記録的名演説を産んだのだ。・・・ 場内の私語がぱっと消えた。 広田首相、 寺内陸相に質すその 一句毎に万雷の拍手が起る。 民政も政友も共産も与党もない、煮えくり返る場内から拍手の連続だ。 五・一五事件のことに及んだとき、 議席の犬養健(たける) 君(※立憲政友会)がはっとうっぷした。 涙をぬぐっている。憲政擁護に生涯を終始した父君の面影が、 身も心も 感奮の為め躍り上がったのだ。 健君は落ちる涙を覆いかねた。 首相も陸相も俯いている。 傍聴人も身を乗り出して聴覚を尖らせて居る。 深山を闊歩する猛虎の叫び、4時28分! 熱気を帯びた拍手、 齋藤さんは壇を下りた。 後方の議席に帰る途中、両側の議員は手を差し伸 べて齋藤さんと握手した。声もない。 沈黙、感激の握手の連続だ。」 (『報知新聞』1936年5月8日) 斎藤はのちに「私は死すとも、この演説は永くわが国の憲政史上に残ると思えば、 私は実に政治家としての一大責任を果したる心地が した」と回想している。 斎藤のもとには「国民が言えなかったことを、代わりによく言ってくれた」 と満洲、 台湾、 朝鮮、上海など外地からも手紙や電報が寄せられたという。 斎藤は軍部から要注意人物としてマークされ、自宅には暗殺を匂わせる脅迫状が届いた。 1937年(67歳) 7月、 中国で盧溝橋事件が勃発し、泥沼の日中戦争が始まる。
- 1938年 (68歳)2月、日中戦争を受けて国家総動員法が提出された本会議では、同法が「臣民(国民)の権利、自由、財産、いいかえれ ば臣民の生存権に制限をくわえるもの」「政府の独断専行に依って、決したいからして、 白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これ よりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである」など議会の審議、 決議なしで国民を戦時体制のために統制する国家 総動員法の危険性を指摘した。演説後、「この案はあまりに政党をなめている」 「僕は自由主義最後の防衛のために一戦するつもりだ」と 同志に語ったが、国会は全会一致で成立させた。 その後、過労から転倒し、 脳梗塞の疑いで病床に着く。
- 1939年 (69歳)、日中戦争の長期化につれ、病床の斎藤の元へ日増しに「なぜ、 斎藤は沈黙するのか」という手紙が増え、軍国主義の 台頭に抗い国民の声を議会に届けるべく登壇を決意。 11月から反軍演説の原稿起草に着手し、鎌倉の海岸で演説の練習を繰り返す。 妻は声を枯らす斎藤を心配して手作りのキャラメルを持たせた。 最終的には90分の演説全文を暗記するまでになり、本番は原稿を見 ることなく演説に挑むことになる。
- 1940年 (70歳) 2月2日午後3時、衆議院本会議(第75議会)で斎藤は立憲民政党から代表質問に立った。「国家総動員法反対演説」 から2年ぶりの斎藤の演説であり、傍聴席は満員であった。斎藤は4年前の『軍演説』と同じく、約2万字を費やし1時間30分に及 大演説「日中戦争処理に関する質問演説」を行った。政府は日中戦争の着地点について、国民に対して明らかに説明不足であり、疑問 点への明確な弁明を求めた。 斎藤は「聖戦などは虚偽である」と戦争目的について明確に批判し、「反軍演説」 (戦争批判演説)と呼ばれ た。
- 「東亜新秩序を唱える近衛(首相)声明で“支那事変”が解決できるというのは、現実を無視し聖戦の美名にかくれて国民的犠牲を閑却 (かんきゃく放置する)するものではないか、近く現れんとしている汪兆銘(おうちょうめい)政権に、中国の将来を担うだけの力があ あるとは思われない。政府は国民精神総動員に巨額の費用を投じているが、国民にはこの事変の目的すらわからない」
- 「この事変の目的はどこにあるかということすらまだ音(あまね) <国民の間には徹底しておらないようである。聞くところによれば、いつぞやある有名な老政治家か、演説会場において聴衆に向って今度の戦争の目的は分らない、何のために戦争をしているのであるか 自分には分らない、諸君は分っているか、分っているならば聴かしてくれと言うた。ところが、満場の聴衆一人として答える者がなかっ たというのである(笑声)」
- 「日清戦争は伊藤内閣において始められて伊藤内閣において解決した。日露戦争は桂内閣において始められて桂内閣が解決した。当時
- 日比谷の焼打事件まで起こりましたけれども、桂公は一身に国家の責任を背負うて、この事変を解決して、しかる後に身を退かれたの であります。 伊藤公といい、桂公といい、国に尽すところの先輩政治家はかくのごときものである。しかるに事変以来の内閣は何である か。内閣は辞職をすれば責任は済むかは知れませぬが、事変は解決はしない。 護国の英霊は蘇らないのであります。(拍手)」 斎藤はついに陸軍を怒らせ、軍はこの演説が「聖戦」を冒涜するものとして攻撃した。 斎藤は懲罰委員会にかけられ、衆議院本会議で斎藤に対して議員処分としては最も重い「除名」が可決された。 総投票数 303票、賛成 296 票、 反対 7票。 反軍演説に対し国民からの批判はなく、逆に斎藤への感謝や激励の電報や手紙が多数送られている。だが、除名後に斎藤のもとに短刀 が送り付けられる事件もあった。 その後、民政党は斎藤を見捨てたとして、内外の信用を失い、後の解党への流れとなる。 斎藤の除名は 政党の自殺行為であり、以後、各党は枢密院議長・近衛文麿らによる「近衛新党」の動きの中で、積極的な解党へと向かう。翌年、太平洋 戦争が始まった。
- 政府や軍部は反軍演説が国民の間に及ぼす影響を恐れ、内務省は各報道機関に「除名処分を批判するが如き記事を禁ず。 斎藤を賞揚 し、同情を寄するが如き記事を禁ず」などの通達を出した。
- 1942年(72歳)のいわゆる翼賛選挙では、 斎藤は軍部などからの選挙妨害をはねのけ、 大政翼賛会 「非推薦」にもかかわらず兵庫 5 区から大差でトップ当選を果たしている。 軍部に除名させられた斎藤を、 民衆は最高点で国会に戻した。 人々がいかに斎藤に共感した のかが数字となって現れた。
- 勝利後の斎藤「今回私の選挙は全国民注目の焦点であったが、 ここに至りて第七十五議会の私に対する処分は国民の判決によりて根抵より覆えされ、 衆議院の無能と非立憲とを暴露すると同時に、 私の政治生涯にとりてそれは永く忘るべからざる記念塔である」。
- 1946年(76歳)、 敗戦後、 公職追放令によって進歩党 274人のうち260人が公職追放される中、 斎藤は追放を免れ総務委員として党を代表する立場となり、 第1次吉田内閣の国務大臣として初入閣する。