承継
軌跡

生い立ち

土佐藩の下級武士の家に生まれました。子どもの頃は泣き虫で、周りの友達からもからかわれていました。
姉の乙女(おとめ)の勧めで剣術を始めると、その才能を発揮し始めます。
18歳で剣術の勉強のため、江戸に留学します。
その頃、ペリーが来航し、藩の命令で品川の警備をしていた竜馬も外国船を見る機会がありました。その大きさに驚き、剣術では外国とは戦えないと思い、西洋式の砲術を習い始めます。
土佐に帰国した際には、絵師河田小龍(かわだしょうりょう)に世界情勢の話を聞きます。河田は、ジョン万次郎(中浜万次郎)の話を本にまとめた人でした。
1862年、27歳で脱藩した後、幕臣勝海舟(かつかいしゅう)を訪ねました。海軍を作り、アジアの国々と連帯する話を聞いた竜馬は、そのスケールの大きさに感激し、海舟の弟子になり、神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)の創設のために奔走します。

海援隊

土佐の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)と出会い、犬猿の仲の薩摩と長州が手を結び、幕府を倒すという、薩長同盟(さっちょうどうめい)の実現に向けて動き出します。
1865年、薩摩藩の後援のもと、長崎で日本初の会社「亀山社中」(かめやましゃちゅう)を作ります。薩摩の名前で買った船や武器を長州へ運ぶなど、薩長を結び付ける役割も果たしました。亀山社中は、土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を支援者として「海援隊」(かいえんたい)と改名します。世界を相手に仕事をするのが竜馬の夢でした。

大政奉還

新国家へのタクトを振る、薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始める。土佐藩は武力討幕を避けたい考えで、その策を龍馬に求めてきた。龍馬は後藤に土佐藩船夕顔の中で、大政奉還(たいせいほうかん)を盛り込んだ8つの策を提案した。これが船中八策といわれる。後藤はこれを前・土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)に進言し、容堂が15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。