この追悼サイトは、 塚本 さと(近江商人の主婦を育成する「淡海女子実務学校」設立さまのために作成されました。
享年84歳 、誕生日 1843年8月30日、命日 1928年1月4日
※ 塚本さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8月30日) - 昭和3年(1928年)1月4日)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人の妻。名は里子とも。
大正5年(1916年)に夫源三が死去した後、大正8年(1919年)4月数え77歳の時に私費を投じて神崎郡北五個荘村竜田(現東近江市五個荘竜田町)に『淡海女子実務学校』(たんかいじょしじつむがっこう)を設立し、校長に就任した。同学校は『近江商人の主婦として温良貞淑で家庭の実際に適応する堅実な女子を養成する』ことを目的とし、顧問に杉浦重剛・下田歌子・嘉悦孝子を招き、大正14年(1925年)4月より下田歌子が校長になり校名を『淡海実践女学校』に改め、翌年には『淡海高等女学校』に昇格した[1]。
さとは、文久3年(1863年)、数え21歳で店の奉公人であった源三を婿に迎え、塚本源三郎家を分家創立した。源三は二代目定次を補佐し、塚本商店東京支店主任として塚本商店の経営に貢献した。さとは川並の留守宅で、質素倹約と勤勉の家風を守って家政を取り仕切り、5男3女の子供達を養育した。
長男が病死したため、二男が源三郎家を継いで本家塚本商店の会社組織への発展に貢献した。この二代目源三郎は後に塚本家の歴史を後世に伝えるために、始祖である初代久蔵、二代目定次、弟正之の功績を記した『紅屋三翁』を遺した。
近江商人の妻は、主人の留守宅の家政の管理と子供達の養育に責任を持ち、さらには地元で採用した奉公人の初期教育の役割も担った。
さとは定次から後継者育成のため一門の子弟教育を任され、京都から儒学者を招いて、自ら範を示して子弟と共に学びながら、彼らを指導した。
また一門の女子には、近郊から着物の仕立屋を招いて専門的な裁縫を見学させ、自ら率先して習った。
さとの教育方法は厳しく徹底していたが、子弟達は、彼女自身が率先垂範して学ぶ姿勢に共感し、不平をいうことなく従った。
また近在の娘たちは、さとの家へ汐ふみ(見習奉公)に来る者も少なくなかった。
3.子女教育への関心
さとは子供達が成長し、手がかからなくなった45歳の頃から和歌を学び始めた。最初は京都の三角有紀に師事し、次いで服部春樹(大津)、小田栄(東京)、須川信行(京都)、下田歌子(東京)らの歌人に和歌の添削を請うた。
さとが遺した和歌は、「月の影」(塚本さと著 徳集堂、昭和5年1930年)として出版された。
和歌を通じて、下田歌子(欧米の女子教育視察を行い後に実践女子学園の創始者)や、嘉悦孝子(嘉悦学園の創始者)、近江膳所出身の著名な教育者・杉浦重剛等と知り合い、交流を深めるなかで次第に教育の必要性に目覚めていった。
さとは、自分の世間知らずを思い知り、「自分の孫たちは、たとえ夫に先立たれても、子供を教育できる知識と技能を身につけるべきである」という考えを持つようになった。
さとは早くに両親と死別したので、家事については自らが学び、自らが苦心して習う他に仕方がなかった。そこで息子の嫁のために、自らの経験と実践を基にして、明治23年(1890年)、47歳のときに家政の手引書『姑の餞別』をまとめた。
滋賀県東近江市五個荘川並町630番地
豪商・塚本源三郎と、その母で文化人としても知られた塚本さとの本宅。塚本源三郎が明治十三年に古屋を購入して移築し、既存の土蔵を合わせた築二百年以上の邸宅で、塚本家の理念を表す「質素倹約と勤勉」そのものの落ち着いた佇まいと文人好みの簡素な山水庭が美しいです。
また、文化人としても知られる源三郎は、書家の雅号・八年(やとせ)から同邸を「八年庵(はちねんあん)」と称し、同庵を訪れた野村文挙、山元春挙、山岡鉄舟らの作品をはじめ、塚本家と交流のあった勝海舟、福沢諭吉らの書簡、屏風、掛け軸などが保管されています。
同庵内には、初代源三郎・さと夫妻の合作「寿と宝珠」の掛け軸や香炉、勝海舟の書簡(本屋・奥座敷)をはじめ、野村文挙など五個荘ゆかりの画家作品を展示する喫茶コーナー(別棟)もあり、ゆったりとした雰囲気のなか美術鑑賞ができます。
※注:このサイトは、塚本さとに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年84歳 、誕生日 1843年8月30日、命日 1928年1月4日
※ 塚本さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8月30日) - 昭和3年(1928年)1月4日)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人の妻。名は里子とも。
生涯[編集]
塚本さとは、天保14年(1843年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代塚本定右衛門の五女として誕生した[1]。数え21歳の時に店の奉公人であった源三を婿に迎え塚本源三郎家を立て、近江商人の妻として5男3女を儲けた[2]。さとは、「読み、書き、算盤」を寺子屋で学び、女子としての嗜みとして家庭で「裁縫、生け花、茶道」を学んだが、明治に入り新しい世の中の商家の妻として女子教育の大切さを痛感するようになっていた[3]。『女子として時勢に順応すると共に、古来の美風と祖先の偉業を継承せしめるには、義務教育に加え、商業上の常識を養い、日常の業務に習熟させることが必要』との考えを持つようになった[1]。明治23年(1890年)息子の妻のために、年中行事・総菜の作り方・家事の心得、家具・衣類の手入方法を記した『姑の餞別』という家政手引き書をまとめ、商家の嫁の手本書を書いた。大正5年(1916年)に夫源三が死去した後、大正8年(1919年)4月数え77歳の時に私費を投じて神崎郡北五個荘村竜田(現東近江市五個荘竜田町)に『淡海女子実務学校』(たんかいじょしじつむがっこう)を設立し、校長に就任した。同学校は『近江商人の主婦として温良貞淑で家庭の実際に適応する堅実な女子を養成する』ことを目的とし、顧問に杉浦重剛・下田歌子・嘉悦孝子を招き、大正14年(1925年)4月より下田歌子が校長になり校名を『淡海実践女学校』に改め、翌年には『淡海高等女学校』に昇格した[1]。
関連項目[編集]
著作- 「葦のわか葉」(塚本さと著 塚本源三郎 1923年)
- 「月の影」(塚本さと著 徳集堂 1930年)
- 「姑の銭別」(塚本さと著 淡海高等女学校 1931年)
- 「おばあさま 塚本さと子刀自略伝」(渡辺千治郎著 淡海高等女学校出版部 1933年)
- 「紅屋二媼」(塚本源三郎編 1935年)
- 「近江商人の内助 湖国名婦伝」(渡辺千治郎・太田誠一郎著 社会教育会 1935年)
- 「湖国名婦に関する一考察 塚本さとの場合」(辻照三著 京都外国語大学 2001年)
- 塚本定右衛門
- 塚本定右衛門 (2代):さとの兄
- 塚本正之:さとの兄
- 『八年庵』:塚本源三郎邸(東近江市五個荘川並町)[4]
さとは、文久3年(1863年)、数え21歳で店の奉公人であった源三を婿に迎え、塚本源三郎家を分家創立した。源三は二代目定次を補佐し、塚本商店東京支店主任として塚本商店の経営に貢献した。さとは川並の留守宅で、質素倹約と勤勉の家風を守って家政を取り仕切り、5男3女の子供達を養育した。
長男が病死したため、二男が源三郎家を継いで本家塚本商店の会社組織への発展に貢献した。この二代目源三郎は後に塚本家の歴史を後世に伝えるために、始祖である初代久蔵、二代目定次、弟正之の功績を記した『紅屋三翁』を遺した。
近江商人の妻は、主人の留守宅の家政の管理と子供達の養育に責任を持ち、さらには地元で採用した奉公人の初期教育の役割も担った。
さとは定次から後継者育成のため一門の子弟教育を任され、京都から儒学者を招いて、自ら範を示して子弟と共に学びながら、彼らを指導した。
また一門の女子には、近郊から着物の仕立屋を招いて専門的な裁縫を見学させ、自ら率先して習った。
さとの教育方法は厳しく徹底していたが、子弟達は、彼女自身が率先垂範して学ぶ姿勢に共感し、不平をいうことなく従った。
また近在の娘たちは、さとの家へ汐ふみ(見習奉公)に来る者も少なくなかった。
3.子女教育への関心
さとは子供達が成長し、手がかからなくなった45歳の頃から和歌を学び始めた。最初は京都の三角有紀に師事し、次いで服部春樹(大津)、小田栄(東京)、須川信行(京都)、下田歌子(東京)らの歌人に和歌の添削を請うた。
さとが遺した和歌は、「月の影」(塚本さと著 徳集堂、昭和5年1930年)として出版された。
和歌を通じて、下田歌子(欧米の女子教育視察を行い後に実践女子学園の創始者)や、嘉悦孝子(嘉悦学園の創始者)、近江膳所出身の著名な教育者・杉浦重剛等と知り合い、交流を深めるなかで次第に教育の必要性に目覚めていった。
さとは、自分の世間知らずを思い知り、「自分の孫たちは、たとえ夫に先立たれても、子供を教育できる知識と技能を身につけるべきである」という考えを持つようになった。
さとは早くに両親と死別したので、家事については自らが学び、自らが苦心して習う他に仕方がなかった。そこで息子の嫁のために、自らの経験と実践を基にして、明治23年(1890年)、47歳のときに家政の手引書『姑の餞別』をまとめた。
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豪商・塚本源三郎と、その母で文化人としても知られた塚本さとの本宅。塚本源三郎が明治十三年に古屋を購入して移築し、既存の土蔵を合わせた築二百年以上の邸宅で、塚本家の理念を表す「質素倹約と勤勉」そのものの落ち着いた佇まいと文人好みの簡素な山水庭が美しいです。
また、文化人としても知られる源三郎は、書家の雅号・八年(やとせ)から同邸を「八年庵(はちねんあん)」と称し、同庵を訪れた野村文挙、山元春挙、山岡鉄舟らの作品をはじめ、塚本家と交流のあった勝海舟、福沢諭吉らの書簡、屏風、掛け軸などが保管されています。
同庵内には、初代源三郎・さと夫妻の合作「寿と宝珠」の掛け軸や香炉、勝海舟の書簡(本屋・奥座敷)をはじめ、野村文挙など五個荘ゆかりの画家作品を展示する喫茶コーナー(別棟)もあり、ゆったりとした雰囲気のなか美術鑑賞ができます。
※注:このサイトは、塚本さとに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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