業績
- 1911年(明治44年)6月20日 日田重太郎(資産家。日田の息子の家庭教師を佐三が務める)から「働く者を身内と思い良好な関係を築き上げろ。己の考えを決して曲げず貫徹しろ。そして私(日田)が金を出したことは他言するな。」と資金6,000円を渡され満25歳で独立。福岡県門司市(現・北九州市門司区)に出光商会を設立。日本石油(現・ENEOS)の特約店として機械油を扱った。
- 1914年(大正3年)南満州鉄道に車軸油の納入成功。
- 1919年(大正8年)酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に「2号冬候車軸油」を無償で提供。当初は使われてすらいなかったが、単身満州にわたり満鉄本社に直談判し、現地で試験を行い、事故を一掃した。1927年(昭和2年)満鉄創立20周年のときに、感謝状と銀杯が贈られた。
- 1923年(大正12年)関東大震災に際し、全店員に禁煙を呼びかける(2ヶ月間)。
- 1924年(大正13年)第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。
- 1929年(昭和4年)朝鮮における石油関税改正のために奔走。
- 1932年(昭和7年)門司商工会議所会頭に就任。
- 1935年(昭和10年)「満州国」の石油専売制に反対。
- 1937年(昭和12年)2月5日 貴族院議員(多額納税)に就任[6]。
- 1938年(昭和13年)国策会社大華石油設立に反対。
- 1940年(昭和15年)3月 出光興産株式会社を設立。
- 1941年(昭和16年)北支石油協会の設立に反対。
- 1943年(昭和18年)石油販売法に反対。
- 1945年(昭和20年)8月 出光佐三は、終戦の2日後、従業員に「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示した。多くの企業が人員を整理する中、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言した。
功績
賞詞著書
- 『四十年間を顧る』 1951年
- 『わが四十五年間』 1956年
- 『物質尊重より人間尊重へ』出光松寿会、1961年。
- 『人間尊重五十年』 春秋社 1962年。新版2016年
- 『経営のあり方』東海銀行、1962年。
- 『「人の世界」と「物の世界」―四十の質問に答える』 出光興産社長室 1963年。新版・春秋社 2014年
- 『マルクスが日本に生れていたら』 春秋社 1966年(1972年改訂)。新版・春秋社、2013年
- 『働く人の資本主義』 春秋社 1969年。新版・春秋社 2013年
- 『日本人にかえれ』ダイヤモンド社 1971年、新版2004年
- 『永遠の日本―二千六百年と三百年 出光佐三対談集』 平凡社 1975年
- 『道徳とモラルは完全に違ふ』 出光興産 1983年
- 『出光の言葉』 出光興産 1984年
- 滝口凡夫 編 『出光佐三魂の言葉 : 互譲の心と日本人』海竜社、2012年。ISBN 9784759312508。