この追悼サイトは、 舟橋 聖一(小説家・「花の生涯」などで知られるさまのために作成されました。
享年71歳 、誕生日 1904年12月25日、命日 1976年1月13日
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舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12月25日 - 1976年(昭和51年)1月13日)は、日本の小説家。東京生れ。旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学文学部卒。弟は脚本家の舟橋和郎。日本芸術院会員。文化功労者。
大学在学中に『朱門』に参加。四代目河原崎長十郎や村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力し、『白い腕』で文壇に登場。明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して『ダイヴィング』(『行動』1934年10月)を発表、行動主義を宣言して注目された。多くの戯曲を書いたが、小説『木石』で地位を確立。
戦中に書き継いで声価の高い『悉皆屋康吉』を経て、戦後は、『雪夫人絵図』や『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、『花の生涯』をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。その後も『ある女の遠景』『好きな女の胸飾り』などで独自の伝統的、官能的な美の世界を展開。丹羽文雄とは自他共に認めるライバル関係であった[1]。
1925年(大正14年)に高校を卒業し、東京帝国大学文学部国文科に進んだ。四代目河原崎長十郎を中心に、池谷信三郎、村山知義らとともに劇団「心座」を結成し、また文芸部雑誌『朱門』の同人となり、阿部知二らを知る。『朱門』創刊号に戯曲『信吉の幻覚』を発表、翌年に戯曲『痼疾者』が上演され、上司小剣や秋田雨雀に認められた。この年の7月に佐藤百寿と結婚、10月には『新潮』に『白い腕』を発表している。1928年(昭和3年)、『文芸都市』の同人となり、阿部知二、井伏鱒二、梶井基次郎、外村繁らと「新人クラブ」を結成。翌年「心座」を退き、阿部、井伏らと『新文芸都市』を創刊。このほかにも、今日出海らと「蝙蝠座」を、小林秀雄や井伏鱒二らと「新興芸術派クラブ」を、飯塚友一郎らと「演劇学会」を結成して盛んに文芸活動に身を投じる一方、『あらくれ会』同人になり徳田秋声の門下生となっている。この間に拓殖大学と明治大学で講師を務めた。
1933年(昭和8年)に創刊した『行動』に発表した『ダイヴィング』は、行動主義、能動精神運動を起こして大きな反響を呼ぶ。この頃小林の勧めで『文學界』同人となり、さらに『行動文学』を創刊。1938年(昭和13年)に『文學界』に発表した『木石』で認められ、以後『新風平家物語』『北村透谷』『女の手』などを書いた。
戦後は『小説新潮』に掲載した『雪夫人絵図』をはじめとする風俗小説で人気を得、1953年(昭和28年)には『花の生涯』を発表。幕末の大老・井伊直弼を中心とした開国前後の動乱期の人間模様を描いたこの作品は、NHK大河ドラマの第一作となった。また1999年(平成11年)にも『新・忠臣蔵』を原作とした『元禄繚乱』がNHK大河ドラマで放送された。
多磨霊園にある舟橋家の墓1966年(昭和41年)より眼病が悪化し、晩年は両眼ともにほぼ失明状態に陥ったが口述筆記で執筆活動を継続。1970年(昭和45年)より平凡社『太陽』に自らライフワークと位置付けた『源氏物語』の連載と、読売新聞に『太閤秀吉』の連載を開始したが、1976年(昭和51年)完結を前に日本医科大学付属病院で急死。この両作を含めた数作が未完の絶筆となった。この日は選考委員を務めていた芥川賞の第74回選考会の前日だった[4]。戒名は文篤院殿青海秀聖居士[5]。
スポーツとのかかわり[編集]舟橋は菊池寛、吉川英治、吉屋信子らと共に文士馬主でも有名であり、主な所有馬に中山大障碍勝ち馬のモモタロウがいる。時に府中・中山での競馬施行時には開催日程を皆勤するほど熱心で、府中ではイギリス風の洋服にハンチング、一転して中山では和服姿と使い分けたりする洒落者だった[6]。
また幼い頃からの相撲好きでも知られる。舟橋の著作である『相撲記』(1943年)では、講演旅行の帰りに大阪で途中下車して福島公園での大相撲巡業に顔を出し、気の抜けた花相撲をみながら「尚この濛々たる俗情を愛せずにいられない我が身の因果」と記している。横綱審議委員会の委員を創設時から死去時まで務め、1969年からは委員長に任じられた。横審委員として国技館に日参し、若乃花、朝潮の横綱昇進に反対意見を出し、北の富士、玉乃島の横綱同時昇進の際には八百長の存在を指摘する[7]等、日本相撲協会にとっては厳しい意見をよく出した。
作品一覧[編集]
舟橋聖一記念文庫 滋賀県彦根市尾末町8-1 電話0749-22-0649
享年71歳 、誕生日 1904年12月25日、命日 1976年1月13日
※ 舟橋さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12月25日 - 1976年(昭和51年)1月13日)は、日本の小説家。東京生れ。旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学文学部卒。弟は脚本家の舟橋和郎。日本芸術院会員。文化功労者。
大学在学中に『朱門』に参加。四代目河原崎長十郎や村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力し、『白い腕』で文壇に登場。明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して『ダイヴィング』(『行動』1934年10月)を発表、行動主義を宣言して注目された。多くの戯曲を書いたが、小説『木石』で地位を確立。
戦中に書き継いで声価の高い『悉皆屋康吉』を経て、戦後は、『雪夫人絵図』や『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、『花の生涯』をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。その後も『ある女の遠景』『好きな女の胸飾り』などで独自の伝統的、官能的な美の世界を展開。丹羽文雄とは自他共に認めるライバル関係であった[1]。
1925年(大正14年)に高校を卒業し、東京帝国大学文学部国文科に進んだ。四代目河原崎長十郎を中心に、池谷信三郎、村山知義らとともに劇団「心座」を結成し、また文芸部雑誌『朱門』の同人となり、阿部知二らを知る。『朱門』創刊号に戯曲『信吉の幻覚』を発表、翌年に戯曲『痼疾者』が上演され、上司小剣や秋田雨雀に認められた。この年の7月に佐藤百寿と結婚、10月には『新潮』に『白い腕』を発表している。1928年(昭和3年)、『文芸都市』の同人となり、阿部知二、井伏鱒二、梶井基次郎、外村繁らと「新人クラブ」を結成。翌年「心座」を退き、阿部、井伏らと『新文芸都市』を創刊。このほかにも、今日出海らと「蝙蝠座」を、小林秀雄や井伏鱒二らと「新興芸術派クラブ」を、飯塚友一郎らと「演劇学会」を結成して盛んに文芸活動に身を投じる一方、『あらくれ会』同人になり徳田秋声の門下生となっている。この間に拓殖大学と明治大学で講師を務めた。
1933年(昭和8年)に創刊した『行動』に発表した『ダイヴィング』は、行動主義、能動精神運動を起こして大きな反響を呼ぶ。この頃小林の勧めで『文學界』同人となり、さらに『行動文学』を創刊。1938年(昭和13年)に『文學界』に発表した『木石』で認められ、以後『新風平家物語』『北村透谷』『女の手』などを書いた。
戦後は『小説新潮』に掲載した『雪夫人絵図』をはじめとする風俗小説で人気を得、1953年(昭和28年)には『花の生涯』を発表。幕末の大老・井伊直弼を中心とした開国前後の動乱期の人間模様を描いたこの作品は、NHK大河ドラマの第一作となった。また1999年(平成11年)にも『新・忠臣蔵』を原作とした『元禄繚乱』がNHK大河ドラマで放送された。
多磨霊園にある舟橋家の墓1966年(昭和41年)より眼病が悪化し、晩年は両眼ともにほぼ失明状態に陥ったが口述筆記で執筆活動を継続。1970年(昭和45年)より平凡社『太陽』に自らライフワークと位置付けた『源氏物語』の連載と、読売新聞に『太閤秀吉』の連載を開始したが、1976年(昭和51年)完結を前に日本医科大学付属病院で急死。この両作を含めた数作が未完の絶筆となった。この日は選考委員を務めていた芥川賞の第74回選考会の前日だった[4]。戒名は文篤院殿青海秀聖居士[5]。
スポーツとのかかわり[編集]舟橋は菊池寛、吉川英治、吉屋信子らと共に文士馬主でも有名であり、主な所有馬に中山大障碍勝ち馬のモモタロウがいる。時に府中・中山での競馬施行時には開催日程を皆勤するほど熱心で、府中ではイギリス風の洋服にハンチング、一転して中山では和服姿と使い分けたりする洒落者だった[6]。
また幼い頃からの相撲好きでも知られる。舟橋の著作である『相撲記』(1943年)では、講演旅行の帰りに大阪で途中下車して福島公園での大相撲巡業に顔を出し、気の抜けた花相撲をみながら「尚この濛々たる俗情を愛せずにいられない我が身の因果」と記している。横綱審議委員会の委員を創設時から死去時まで務め、1969年からは委員長に任じられた。横審委員として国技館に日参し、若乃花、朝潮の横綱昇進に反対意見を出し、北の富士、玉乃島の横綱同時昇進の際には八百長の存在を指摘する[7]等、日本相撲協会にとっては厳しい意見をよく出した。
作品一覧[編集]
- 『ダイヴィング』(1935年、紀伊國屋書店)
- 『岩野泡鳴伝』(1938年、青木書店。のちに、1971年、角川書店)
- 『新胎・木石』(1938年12月、青木書店) - 「木石」(ぼくせき) - 1938年10月「文学界」。細菌学研究所長二桐博士と、25年間勤務する女性助手追川初と、初の娘ということになっているじつは前所長R博士と某夫人との間の不貞の子襟子。初は亡きR博士を思い続け、襟子は二桐博士に恋するようになる。初は、自分の二の舞をさせまいと襟子をとがめ叱る。一見木石のようで、人情も解さないように見える。しかし実験用のネズミにかまれて細菌が伝染し、やがて死ぬが、遺言で二桐博士に解剖を依頼し、処女であることを証明し、じつは非凡な人情に生き抜いた女性であることが知れる。(1940年に松竹で映画化)
- 『川音』(1940年、実業之日本社)
- 『新風平家物語』(1940年、万里閣)
- 『愛児煩悩』(1940年、万里閣)
- 『清流』(1941年、人文書院)
- 『徳田秋声』(1941年、弘文堂)
- 『北村透谷』(1942年、中央公論社)
- 『女の手』(1942年、講談社)
- 『随筆日本文学』(1942年、秩父書院)
- 『りつ女年譜』(1942年、中央公論社)
- 『牡丹は咲きぬ』(1943年、紀元社)
- 『悉皆屋康吉』(1945年、創元社)
- 『散り散らず』(1945年、生活社)
- 『老茄子』(1947年、文學界社)
- 『無風』(1948年、改造社)
- 『雪夫人絵図』(1948年、新潮社)(1950年新東宝で映画化され、1968年に東映で映画が製作されるもお蔵入り。1975年日活系列で公開され日の目を見た)
- 『花の素顔』(1949年、朝日新聞社)(1949年松竹が映画化)
- 『芸者小夏』(1952年、新潮社)(1954年、1955年<『芸者小夏 ひとり寝る夜の小夏』>東宝が、1965年<『帯をとく夏子』>大映が映画化、1963年TBSがテレビドラマ化)
- 『花の生涯』(1953年、新潮社)(1953年<『花の生涯 彦根篇 江戸篇』>松竹が映画化、1963年<『花の生涯』>NHKが大河ドラマで、1974年<『花の生涯』>日本テレビが、1988年<『花の生涯 井伊大老と桜田門』>テレビ東京が新春ワイド時代劇でテレビドラマ化)
- 『女めくら双紙』(1954年、角川書店)(1965年<『女めくら物語』>、1968年大映が映画化)
- 『絵島生島』(1954–55年、新潮社)(1955年松竹が映画化、1971年東京12チャンネルがテレビドラマ化)
- 『海の百万石』(1955–56年、講談社)(1956年東映が映画化)
- 『白い魔魚』(1956年、新潮社)(1956年松竹が映画化)
- 『愛の濃淡』(1957年、角川書店)(1959年松竹が映画化)
- 『朱の花粉』(1958-1960年、講談社)(1960年松竹が映画化)
- 『新・忠臣蔵』(1957–61年、毎日新聞社)(1999年<『元禄繚乱』>NHKが大河ドラマでテレビドラマ化)
- 『霧ある情事』(1959年、新潮社)(1959年松竹が映画化)
- 『白子屋駒子』(1960–61年、角川書店)(1960年大映が映画化)
- 『夢でありたい』(1961年、新潮社)(1962年大映が映画化)
- 『ある女の遠景』(1963年、講談社)(本作で第5回(1964年)毎日芸術賞を受賞する)
- 『モンローのような女』(1964年、文藝春秋新社)(1964年松竹が映画化)
- 『寝顔』(1964–65年、新潮社)
- 『徳川千姫』(1967–68年、人物往来社)
- 『好きな女の胸飾り』(1967年、講談社)
- 『花實の繪』(1971年、毎日新聞社)
- 『滝壺』(1973年、新潮社)
- 『白の波間』(1976年、中央公論社)
- 『源氏物語』(1970–76年、未完、平凡社)桐壺~幻
- 『太閤秀吉』(1970–76年、未完、読売新聞社)
- 『谷崎潤一郎と好色論 日本文学の伝統』(2015年、幻戯書房)
- 『文藝的な自伝的な』(2015年、幻戯書房)
舟橋聖一記念文庫 滋賀県彦根市尾末町8-1 電話0749-22-0649
舟橋聖一記念文庫は、昭和51年1月13日に死去された、彦根市名誉市民である作家・舟橋聖一氏の蔵書のすべて約38,700点が、遺族から彦根市に寄贈され、同年7月20日、開設されたものです。
※注:このサイトは、舟橋聖一に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝