オホーツクのわらすっこ
啓北商業高校定時制の顧問時代に発表し、初めて日本一に輝いた『オホーツクのわらすっこ』、そして『閉山』。漁村、炭鉱を舞台に、地域の情況と高校生の進路への葛藤をからませた社会性のある作品
高校演劇『オホーツクのわらすっこ』再演の意義=北海道高校演劇の足跡をたどる=
高校演劇『オホーツクのわらすっこ』再演の意義=北海道高校演劇の足跡をたどる=
浜茄子紅き磯辺にも 文:齋藤裕子
浜茄子紅き磯辺にも
父のお墓は、遠くに札幌の街が見渡せる高台の霊園にあります。
父は、北海道が大好きといつも言っていて、死んだら北海道の主峰大雪山に散骨してほしいな…と言っていたほどでした。
1949年、九州の熊本工業専門学校(現熊本大学工学部)を卒業後、進学を諦めて教員になるために東京都教育委員会に行き、過疎なところでもよいのならという条件で伊豆七島のひとつ御蔵島中学の教諭になりました。先生は校長と教頭と19歳の父3人だけ、生徒は5人。そこでの暮らしはたいそう楽しくて、友だちのように島の子どもたちと一緒に遊びまくっていたそうです。
ところが、次の年、北大に入った熊本工専の友人から「ダイガクガナクナルゾ、ホッカイドウハイイゾ、クラークハイイゾ。」と電報が届きます(学制改革により旧制大学入試は1950年が最後)。悩みに悩んで、北大受験に臨んだのです。
生まれてはじめて津軽の海を渡り、函館から汽車に乗り雪の駒ケ岳や氷の大沼を見た瞬間から北海道が大好きになったと聞きました。
友人や、先生、下宿のおばさん、たくさんの方々に支えられて大学生活を送っていたのですが、仕送りも期待できず貧しかったため、1951年在学中に定時制高校の教員になりました。昼は学生、夜は先生です。結局、卒業後もそのまま教員を続けることになり、昼は私立高校、夜は定時制高校で教えていました。その後、札幌市立の高校に移ったので落ち着きましたが、なんとも忙しい生活でした。
1954年に私立の女子高の教員になり、ひょんなことから演劇部の顧問になってしまいます。演劇の「え」の字も知らなかったのに、そこから父の第二の人生が始まります。定時制高校でも演劇部顧問になり、三番目の高校でも演劇三昧でした。数多くの創作脚本を残しています。卒業生たちが演劇を続ける場として、アマチュア劇団も作りました。
父のお葬式には、たくさんの教え子たちが集まってくれました。お通夜の後の斎場ロビーは、久しぶりに顔を合わす仲間の声で賑やかでした。まるで、学校の休み時間の廊下のようです。
こんなに多くの生徒さんたちが集まってくれたのに、主役の父がいないなんて。
この場に父がいたら、嬉しくて嬉しくて一緒にお酒を飲んで一緒に騒ぎたかったでしょうにと涙がでました。
2014年に発表した父の最後の脚本は、一人の男性が石狩浜(北海道石狩市)で黙々と自分のお墓を掘る、という物語でした。今思えば、父自身が北海道の土になりたいと願っていたのでは‥という気がします。
「浜茄子紅き磯辺にも」というその脚本のタイトルは、北大寮歌「瓔珞磨く」の2番の歌詞からもらったものだと思います。石狩浜は浜茄子(ハマナス)が有名な砂浜です。最期まで北大が大好きな父でした。
大雪山散骨も考えたのですが、母がお墓を作りたいと希望しました。場所も何か所か見学しましたが、札幌市が遠くに見渡せるこの霊園がいいと母が決めました。墓石には「浜茄子紅き磯辺にも」と父の直筆で記しました。
「瓔珞みがく」(大正9年、北大寮歌)
作詞 佐藤一雄 作曲 置塩奇
2 浜茄(はまなす)紅き磯辺にも
鈴蘭薫る谷間にも
愛奴(アイヌ)の姿薄れゆく
蝦夷の昔を懐(おも)ふかな
齋藤裕子
父は、2019年8月に89歳で旅立ちました。父のお墓は、遠くに札幌の街が見渡せる高台の霊園にあります。
父は、北海道が大好きといつも言っていて、死んだら北海道の主峰大雪山に散骨してほしいな…と言っていたほどでした。
1949年、九州の熊本工業専門学校(現熊本大学工学部)を卒業後、進学を諦めて教員になるために東京都教育委員会に行き、過疎なところでもよいのならという条件で伊豆七島のひとつ御蔵島中学の教諭になりました。先生は校長と教頭と19歳の父3人だけ、生徒は5人。そこでの暮らしはたいそう楽しくて、友だちのように島の子どもたちと一緒に遊びまくっていたそうです。
ところが、次の年、北大に入った熊本工専の友人から「ダイガクガナクナルゾ、ホッカイドウハイイゾ、クラークハイイゾ。」と電報が届きます(学制改革により旧制大学入試は1950年が最後)。悩みに悩んで、北大受験に臨んだのです。
生まれてはじめて津軽の海を渡り、函館から汽車に乗り雪の駒ケ岳や氷の大沼を見た瞬間から北海道が大好きになったと聞きました。
友人や、先生、下宿のおばさん、たくさんの方々に支えられて大学生活を送っていたのですが、仕送りも期待できず貧しかったため、1951年在学中に定時制高校の教員になりました。昼は学生、夜は先生です。結局、卒業後もそのまま教員を続けることになり、昼は私立高校、夜は定時制高校で教えていました。その後、札幌市立の高校に移ったので落ち着きましたが、なんとも忙しい生活でした。
1954年に私立の女子高の教員になり、ひょんなことから演劇部の顧問になってしまいます。演劇の「え」の字も知らなかったのに、そこから父の第二の人生が始まります。定時制高校でも演劇部顧問になり、三番目の高校でも演劇三昧でした。数多くの創作脚本を残しています。卒業生たちが演劇を続ける場として、アマチュア劇団も作りました。
父のお葬式には、たくさんの教え子たちが集まってくれました。お通夜の後の斎場ロビーは、久しぶりに顔を合わす仲間の声で賑やかでした。まるで、学校の休み時間の廊下のようです。
こんなに多くの生徒さんたちが集まってくれたのに、主役の父がいないなんて。
この場に父がいたら、嬉しくて嬉しくて一緒にお酒を飲んで一緒に騒ぎたかったでしょうにと涙がでました。
2014年に発表した父の最後の脚本は、一人の男性が石狩浜(北海道石狩市)で黙々と自分のお墓を掘る、という物語でした。今思えば、父自身が北海道の土になりたいと願っていたのでは‥という気がします。
「浜茄子紅き磯辺にも」というその脚本のタイトルは、北大寮歌「瓔珞磨く」の2番の歌詞からもらったものだと思います。石狩浜は浜茄子(ハマナス)が有名な砂浜です。最期まで北大が大好きな父でした。
大雪山散骨も考えたのですが、母がお墓を作りたいと希望しました。場所も何か所か見学しましたが、札幌市が遠くに見渡せるこの霊園がいいと母が決めました。墓石には「浜茄子紅き磯辺にも」と父の直筆で記しました。
「瓔珞みがく」(大正9年、北大寮歌)
作詞 佐藤一雄 作曲 置塩奇
2 浜茄(はまなす)紅き磯辺にも
鈴蘭薫る谷間にも
愛奴(アイヌ)の姿薄れゆく
蝦夷の昔を懐(おも)ふかな