この追悼サイトは、 大隈 重信(政治家、教育者・「早稲田大学の創設者」)さまのために作成されました。
享年83歳 、誕生日 1838年3月11日、命日 1922年1月10日
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大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家[1]・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓[2]。
参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)[3]。聖路加国際病院設立評議会会長[4]。同志社大学社友[5]。
通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設[6][7]、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。
早稲田大学を創設しまたのちに早稲田大学高等学院、早稲田実業学校などもでてきた。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設[8]。立教大学の発展にも携わった[9][10]。
文久2年(1862年)より、副島種臣、前島密らと共に米国聖公会のアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)の私塾で英学を学ぶ[18][9][19][注釈 3]。ウィリアムズの私塾で儒学者の谷口藍田と知り合い、その後深く交遊していく[21]。
大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応3年(1867年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「蕃学稽古所」(翌年、致遠館と改称[22])の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキに英学を学んだ。このころにアメリカ独立宣言などを知り、大きく影響を受けた。致遠館では、舎長・督学の副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。
壮年期の大隈明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた[29]。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった[30]。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した[31]。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している[32]。
3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている[33]。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。このころから木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった
明治2年11月5日(1869年12月7日)、右大臣三条実美の東京邸宅において岩倉具視、沢宣嘉、大隈重信、それに伊藤博文がパークスと非公式に会談しているが、大隈と伊藤が事前にパークスと協議した脚本どおりに議事は進行。「折から東北・九州は凶作に見舞われ、北陸・近畿は反対に豊作と聞く。鉄道があれば豊作地の米を凶作地に短時間で大量に輸送することが可能になり、以降の日本は凶作への不安から解放される」というパークスの主張に三条・岩倉ともに手を打って賛同し、明治2年11月10日(1869年12月12日)には鉄道敷設が正式に廟議決定された。
略歴
西暦(和暦)・数え齢出来事1838(天保9年)・1歳2月16日、大隈信保の長男として佐賀城下会所小路に誕生1844(弘化元年)・7歳藩校弘道館の外生寮に入る1850(嘉永3年)・13歳父、信保が亡くなる1854(安政元年)・17歳義祭同盟に加わる1855(安政2年)・18歳弘道館で南北騒動が起こり、首謀者として退学させられる1856(安政3年)・19歳蘭学寮に入る/枝吉神陽に国学を学ぶ1861(文久元年)・24歳蘭学寮と弘道館合併、教授に/鍋島直正にオランダ憲法を進講1865(慶応元年)・28歳長崎に、英学塾「致遠館」を設立、フルベッキより英語を学ぶ1867(慶応3年)・30歳大政奉還を進めるため、副島種臣とともに脱藩して京都へ1868(明治元年)・31歳イギリス公使パークスに対する論客として起用され大激論1881(明治14年)・44歳天皇の東北巡幸にお供する/明治十四年の政変によって参議を辞任1882(明治15年)・45歳立憲改進党を結成し総理(党首)となる/東京専門学校を開校1888(明治21年)・51歳第一次伊藤博文内閣において外務大臣となる1889(明治22年)・52歳暴漢に爆弾を投げられて負傷し、右脚を切断する1898(明治31年)・61歳憲政党を結成、第1次大隈内閣をつくる/11月内閣解散1914(大正3年)・77歳第2次大隈内閣を組織する(首相兼内相)1922(大正11年)・85歳1月10日死去、1月17日、日比谷で盛大な国民葬が行われる

大隈重信記念館・旧宅(生家) 大隈の生涯を知る記念館と、武家屋敷の面影を残す生家。維新の傑物の誕生地を踏み締め、大隈巡りスタート。
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享年83歳 、誕生日 1838年3月11日、命日 1922年1月10日
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大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家[1]・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓[2]。
参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)[3]。聖路加国際病院設立評議会会長[4]。同志社大学社友[5]。
通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設[6][7]、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。
早稲田大学を創設しまたのちに早稲田大学高等学院、早稲田実業学校などもでてきた。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設[8]。立教大学の発展にも携わった[9][10]。
略歴[編集]
幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた[11]。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる[12]。文久2年(1862年)より、副島種臣、前島密らと共に米国聖公会のアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)の私塾で英学を学ぶ[18][9][19][注釈 3]。ウィリアムズの私塾で儒学者の谷口藍田と知り合い、その後深く交遊していく[21]。
大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応3年(1867年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「蕃学稽古所」(翌年、致遠館と改称[22])の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキに英学を学んだ。このころにアメリカ独立宣言などを知り、大きく影響を受けた。致遠館では、舎長・督学の副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。
新政府での活動[編集]
→「大隈財政」も参照

3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている[33]。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。このころから木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった
日本初の鉄道敷設計画[編集]
大隈や伊藤が鉄道計画を立てたのは1869年から1870年ごろのことと考えられる。井上馨や渋沢栄一に相談された大隈は「賛成せざりしにあらざれども、時の情勢に危ぶところあり」が「斥けかかる反動の気焔を挫かんには、かかる大事業を企成して天下の耳目を新たにするに如くはなし」と答えている[37]。明治2年11月5日(1869年12月7日)、右大臣三条実美の東京邸宅において岩倉具視、沢宣嘉、大隈重信、それに伊藤博文がパークスと非公式に会談しているが、大隈と伊藤が事前にパークスと協議した脚本どおりに議事は進行。「折から東北・九州は凶作に見舞われ、北陸・近畿は反対に豊作と聞く。鉄道があれば豊作地の米を凶作地に短時間で大量に輸送することが可能になり、以降の日本は凶作への不安から解放される」というパークスの主張に三条・岩倉ともに手を打って賛同し、明治2年11月10日(1869年12月12日)には鉄道敷設が正式に廟議決定された。
死去と「国民葬」[編集]
大隈は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めたが、腎臓炎と膀胱カタルを併発して衰弱していった[171]。このころから早稲田大学や憲政会など関係の深い者らにより大隈の顕彰運動が盛んとなり、「国葬」実現や公爵への陞爵[172]、位階・勲等の陞叙を目指して、当時の高橋内閣や元老など政府関係者への工作や、大隈系新聞紙上での顕彰が展開されたが、すでに大勲位菊花章頸飾の授与が決定されていたため、元老である山縣、西園寺、松方、そして宮内大臣の一木喜徳郎も公爵陞爵は過分であると判断した[173]。また、公爵陞爵より重大事であると見られていた国葬については協議も行われなかった[174]。結果的に大隈への栄典は従一位への昇階と菊花章頸飾という形で決着し、大隈関係者が望んだ国葬の開催や陞爵は実現しなかった[175][176]。大正11年(1922年)1月10日4時38分、大隈は早稲田の私邸で死去した[177]。死因は腹部の癌と萎縮腎と発表された[177]。満83歳で亡くなった。略歴
西暦(和暦)・数え齢出来事1838(天保9年)・1歳2月16日、大隈信保の長男として佐賀城下会所小路に誕生1844(弘化元年)・7歳藩校弘道館の外生寮に入る1850(嘉永3年)・13歳父、信保が亡くなる1854(安政元年)・17歳義祭同盟に加わる1855(安政2年)・18歳弘道館で南北騒動が起こり、首謀者として退学させられる1856(安政3年)・19歳蘭学寮に入る/枝吉神陽に国学を学ぶ1861(文久元年)・24歳蘭学寮と弘道館合併、教授に/鍋島直正にオランダ憲法を進講1865(慶応元年)・28歳長崎に、英学塾「致遠館」を設立、フルベッキより英語を学ぶ1867(慶応3年)・30歳大政奉還を進めるため、副島種臣とともに脱藩して京都へ1868(明治元年)・31歳イギリス公使パークスに対する論客として起用され大激論1881(明治14年)・44歳天皇の東北巡幸にお供する/明治十四年の政変によって参議を辞任1882(明治15年)・45歳立憲改進党を結成し総理(党首)となる/東京専門学校を開校1888(明治21年)・51歳第一次伊藤博文内閣において外務大臣となる1889(明治22年)・52歳暴漢に爆弾を投げられて負傷し、右脚を切断する1898(明治31年)・61歳憲政党を結成、第1次大隈内閣をつくる/11月内閣解散1914(大正3年)・77歳第2次大隈内閣を組織する(首相兼内相)1922(大正11年)・85歳1月10日死去、1月17日、日比谷で盛大な国民葬が行われる

大隈重信記念館・旧宅(生家) 大隈の生涯を知る記念館と、武家屋敷の面影を残す生家。維新の傑物の誕生地を踏み締め、大隈巡りスタート。
※注:このサイトは、大隈重信に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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