承継
軌跡

(生い立ち)

天保9年(1838年)2月16日、肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の4人姉弟の長男(姉2人と弟がいる)として生まれる。幼名は八太郎大隈家は、知行400[13](物成120石[13][14][注釈 2])を食み、石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。幕末の上士出身で明治後半まで活躍した元勲には井上馨板垣退助後藤象二郎ら総理大臣には就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。

重信は7歳で藩校弘道館に入校し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学となった[16]。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣江藤新平らと参加した。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている[17]