承継
この追悼サイトは、 シモーヌ・ド・ ボーヴォワール(フランスの哲学者・作家代表作「第二の性」さまのために作成されました。

享年78歳 、誕生日 1908年1月9日、命日 1986年4月14日
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シモーヌ・ド・ボーヴォワール (Simone de Beauvoir、1908年1月9日 - 1986年4月14日) は、フランスの哲学者作家批評家フェミニスト理論家・活動家である20世紀西欧の女性解放思想の草分けとされる『第二の性』(1949)、ゴンクール賞を受賞した自伝小説『レ・マンダラン』(1954) など多くの著書を残した。主要著書はほとんど邦訳されている。

1970年代人工妊娠中絶の合法化を求める運動をはじめとする女性解放運動 (MLF)に加わり、『レ・タン・モデルヌ』、『フェミニズム問題フランス語版)』などを通して運動を牽引した

在学中に出会ったジャン=ポール・サルトルとは、実存主義の立場から自由意思に基づく個人の選択を最重要視し、婚姻も子どもを持つことも拒否。互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶として生きた

1954年ゴンクール賞1975年エルサレム賞1978年オーストリア国家賞を受賞

2008年、女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞(略称:シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞)が設立され、アヤーン・ヒルシ・アリマララ・ユスフザイミシェル・ペローらが受賞している。

必然的な愛 ― 終生の伴侶サルトル[編集]
パリ6区ラスパイユ大通り136番地にあるバルザック記念像前のボーヴォワールとサルトル (1920年代)1929年(21歳)、哲学のアグレガシオン(一級教員資格)試験に合格。前年に落第したサルトルが主席、ボーヴォワールが次席であった。21歳での合格は史上最年少であり、また女性全体としてもアグレガシオンが女性を受け入れ始めてから9人目の合格者だった[2]。志願者76人のうち、合格した女性は4人、男性は9人で、ニザンは5位、マウーは落第した。ダンフェール=ロシュロー通り91番地に越す。サルトルから婚姻も子どもを持つこともなく、嘘をつくことも隠し立てをすることもなく、互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶となることを提案される。これ以前に、サルトルは、高等師範学校の同級生の従妹でリヨンに住む女性との結婚を望み、彼女の両親に正式に申し込んだが、アグレガシオンに落第したことを理由に反対されていた[3]制度としての婚姻や母性を拒否し、自立と自由を求めていたボーヴォワールは最終的にこの申し出を受け入れた。二人のこの反体制順応的な関係は、しばしばサルトルの「私たちのあいだの愛は必然的なもの。でも偶然の愛を知ってもいい」という言葉により表され[4]、新たな男女関係のあり方として若い世代を魅了した。なお、二人の関係はサルトルがボーヴォワールを「身分違いの妻 (épouse morganatique)」と呼んだことから[5]「貴賤結婚 (mariage morganatique)」と称される。語義上は「貴賤結婚」だが、これはかつて王家出身の男性が自分より身分の低い女性と結婚する場合、王家の特権、夫の遺産相続、子の嫡出性等に関する法令が適用されない旨の契約を交わす必要があったからであり[6]、この意味で、「契約結婚」という訳語が当てられることがあるが、あくまでも従来の法制度に従わない、双方の合意のみに基づく結婚という意味である。当初は2年間の「更新可能な」婚姻関係であったが、サルトルが亡くなる1980年まで、二人はそれぞれに「偶然の愛」の経験しながらも、「必然的な愛」を貫くことになった。

7区のヴィクトル・デュリュイ高等学校でラテン語の代理教員を務める。

1930年、サルトル、兵役に就く。

1931年、ボーヴォワールはマルセイユのモングラン高等学校の教員になり、サルトルはル・アーヴルで教職に就く。

第二次世界大戦[編集]
1939年、サルトルとビアンカ・ビアナンフェルドとの関係が深まる。8月23日、独ソ不可侵条約締結。9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。妹エレーヌが結核の療養のためにポーランドに滞在していたリオネル・ド・ルーレに会いに行き、終戦までポーランドに留まることになる。1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻まで奇妙な戦争(まやかし戦争)。サルトルは召集を受け、ヴィサンブール(アルザス北部バ=ラン県)の気象観測班に配属。ボストも召集され、後にクロワ・ド・ゲール勲章を受ける。ロゼール県のリウクロに「危険な外国人」(スペイン人共和主義者、反ファシスト、ユダヤ人等)の「結集センター」が開設されたのを皮切りに、難民や「危険分子」などを収容する「宿泊センター」、「結集センター」、「強制収容所」と呼ばれる各種の収容所が全国に設置される[7]。10月、カミーユ=セ高等学校の文学教員に任命され、11月にサルトルに会いに行く。

第二の性[編集]
1949年5月から9月中頃までオルグレンがパリ、ビュシュリー通りに滞在。ボーヴォワールはこの間、『レ・タン・モデルヌ』に「性の入門」、「同性愛の女」、「母親」を発表(『第二の性』第2巻所収)。6月に『第二の性 ― 事実と神話』(第1巻) を出版(ジャック=ローラン・ボストへの献辞)。『レ・マンダラン』の執筆を開始する。11月に『第二の性 ― 体験』(第2巻) を出版。これまで誰も語ることのなかった女性の性について語った書物、禁忌を破る書物として、スキャンダルを巻き起こすフランソワ・モーリアックをはじめとするカトリック作家だけでなく、左派からも批判が殺到したが、一方で、左翼的カトリック思想家のジャン=マリー・ドムナックは、「エロティクだ、猥褻だという口実でシモーヌ・ド・ボーヴォワールと彼女の試みを攻撃するキリスト教徒は完全に自己欺瞞に陥っていると思う」と反論している[8]『第二の性』は出版後1週間で売上22,000部に達し、日本語、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、カタルーニャ語など10か国語以上に翻訳された。 日本では生島遼一の訳により1953年に新潮社から出版(全5巻)。テレビ広告された本の第一号となった[14]
著書[編集]
主要著書 (邦訳)[編集]
  • 『実存主義と常識』大久保和郎、小野敏子訳 創元社 1952 (L'Existensialisme et la Sagesse des nations, 2008)
  • 『ピリュウスとシネアス』青柳瑞穂訳 新潮社 1952 / 『人間について』青柳瑞穂訳 新潮文庫 1955 (Pyrrhus et Cinéas, 1944)
  • 『招かれた女』川口篤、笹森猛正訳 創元社 1952 のち新潮文庫 (L'Invitée, 1943)
  • 「他人の血」佐藤朔訳『現代世界文学全集 第20 サルトル・ボーヴォワール』新潮社 1953 のち文庫 (Le Sang des autres, 1945)
  • 第二の性』全5巻 生島遼一訳 新潮社 1953-1955 のち文庫 / 『第二の性 ― 決定版』井上たか子、木村信子、中嶋公子、加藤康子監訳 新潮社 1997 のち文庫 (Le Deuxième Sexe, 1949)、河出文庫で新版
  • 『人はすべて死す』川口篤、田中敬一訳 創元社 1953 のち岩波文庫 (Tous les hommes sont mortels, 1946)
  • 『サドは有罪か』室淳介訳 新潮社 1954 一時間文庫 / 白井健三郎訳 現代思潮社 1961 (Faut-il brûler Sade ?, 1972)
  • 『アメリカその日その日』河上徹太郎訳 新潮社 1956 (L'Amérique au jour le jour, 1948)
  • 『レ・マンダラン』朝吹三吉訳「現代世界文学全集 第45-46」新潮社 1956 (Les Mandarins, 1954)
  • 『現代の反動思想』高橋徹、並木康彦訳 岩波現代叢書 1959 (La pensée de droite aujourd'hui,                                                                  その他、多数あり
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このメッセージは、 2025年2月25日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
制度としての婚姻や、母性を拒否し自立と自由を求めていたボーヴォワールは新たな男女関係のあり方として、若い世代を魅了しました。 これまで誰も語ることが無かった女性の性について語った書物を次々と発表しました。 女性解放運動を牽引しました。    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2025年2月25日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
制度としての婚姻や、母性を拒否し自立と自由を求めていたボーヴォワールは新たな男女関係のあり方として、若い世代を魅了しました。 これまで誰も語ることが無かった女性の性について語った書物を次々と発表しました。 女性解放運動を牽引しました。    合掌
軌跡

(生い立ち)

1908年1月9日、パリ6区モンパルナス大通り103番地で、ジョルジュ・ベルトラン・ド・ボーヴォワールとフランソワーズ・ブラスールの間にシモーヌ・リュシ・エルネスティーヌ・マリ・ベルトラン・ド・ボーヴォワールとして生まれた。父ジョルジュはパリ控訴院弁護士、母フランソワーズはヴェルダンロレーヌ地方)の裕福な銀行家ギュスターヴ・ブラスールの娘であったが、翌1909年、ギュスターヴ・ブラスールが破産し、13か月間投獄された後に釈放され、妻と共にパリに引っ越した[1]

1910年6月6日、妹アンリエット・エレーヌ・ド・ボーヴォワール誕生。ボーヴォワール一家はリムーザン(フランス中南部)にある地所でヴァカンスを過ごすことが多かったため、シモーヌはリムーザンの自然を生涯、愛し続けた。

1913年(5歳)、パリ6区ジャコブ通りのカトリック系の私塾アドリーヌ・デジール学院に入学した。1880年代ジュール・フェリーの教育改革により公教育の非宗教性・無償性が保障されたため、学費を払ってカトリック系の私立学校に子どもを通わせたのは、ほとんどがブルジョワ階級の家庭であった。