この追悼サイトは、 清水 信次(ライフ創業者・日本スーパーマーケット協会名誉会長)さまのために作成されました。
享年96歳 、誕生日 1926年4月18日、命日 2022年10月25日
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清水 信次(しみず のぶつぐ、1926年〈大正15年〉4月18日 - 2022年〈令和4年〉10月25日)は、日本の実業家。株式会社ライフコーポレーション創業者、日本スーパーマーケット協会および国民生活産業・消費者団体連合会(生団連)創立者、名誉会長。
スーパーマーケット「ライフ」を興し、売上高7,000億円という日本最大の食品スーパーマーケットチェーンを一代で築いた。ダイエーの中内㓛、セブン&アイホールディングスの鈴木敏文、イオンの岡田卓也らとともに戦後の流通業界を牽引した人物である。
1944年(昭和19年)、陸軍に入隊して戦技特別研究要員(白兵戦、剣道助教)として中国に出征した。初年兵時代の戦友に後に不動産会社・秀和を起こしてバブル期には世界有数の富豪となった実業家・小林茂がいた。秀和は1980年代後半に流通株を買い占めるが(忠実屋・いなげや事件)、この背景には清水と小林の関係があった[2]。
1945年(昭和20年)、陸軍特別幹部候補生、本土防衛特別攻撃隊を経て、敗戦を迎える[3]。清水が戻った大阪は一面の焼け野原となっていた。当時19歳だった清水は、生き延びるため闇市で食品を売ったが、清水はこれ以降、食品流通・販売に終生携わることとなった。翌46年、大阪市天満に15坪の店舗兼自宅を構え、家業の食品卸売業 「清水商店」を継いで代表となった。東京のアメヤ横丁で買い占めた進駐軍の横流し物資を大阪で販売しはじめ、東京と大阪を行き来するうちにGHQと直接取引するようになった[1]。
1954年(昭和29年)、同志社大学を卒業した実弟の清水三夫が清水商店に入社し支配人となる。翌55年には謝らとバナナを輸入するための組合「日本バナナ輸入協会」などを設立した[1]。同年には財閥解体令が廃止され、次第に財閥系商社が復権したため、競合する貿易業から新事業への転換を図り[1]、食品スーパーを創業した。
1977年(昭和52年)日韓協力委員会常任理事、日本チェーンストア協会副会長。
1978年(昭和53年)日本小売業協会常任理事。
1980年(昭和50年)日本バナナ輸入組合理事長[3]。
1982年(昭和57年)2月、ライフコーポレーションの株式上場を機に、社長職を三夫に譲り代表取締役会長となる。
1983年(昭和58年)、日本柑橘輸入協会副会長[3]。
1986年(昭和61年)、日本チェーンストア協会会長に就任、日本パインアップル輸入協会会長[3]。同年に藍綬褒章を受章している。
1988年(平成元年)、三夫が取締役に退いたため社長を兼務、日本パインアップル缶詰協会会長、全国スーパーマーケット協会名誉会長[3]。
1993年(平成5年)から06年まで国策研究会の理事長、12年から15年までは会長を務めた[4]。
1999年(平成11年)、日韓協力委員会副会長に就任[3]。また日本スーパーマーケット協会を設立して初代会長に就任した。
2002年(平成14年)、日本チェーンストア協会副会長、日本流通未来教育センター代表取締役会長。
2003年(平成15年)、日韓協力委員会理事長。
2006年(平成18年)3月、三菱商事からライフコーポレーションに出向していた岩崎高治を代表取締役社長兼COOとし、自身は代表取締役会長兼CEOに就任した。
2009年(平成21年)、日本流通産業代表取締役会長、日本スーパーマーケット協会名誉会長、新日本スーパーマーケット協会名誉会長、対外経済貿易大学客員教授[3]。
2011年(平成23年)、日本チェーンストア協会会長、国民生活産業・消費者団体連合会会長。
2013年(平成25年)、日韓協力委員会会長代行兼理事長。
2015年(平成27年)、日本小売業協会会長。
2017年(平成29年)、日本チェーンストア協会、国民生活産業・消費者団体連合会名誉会長[3]。
2021年(令和3年)、代表権を返上し取締役名誉会長に就任するが[5]、翌年5月27日付けで体力面が厳しいとの理由から取締役から退いた。名誉会長は続投[6]。子息などに世襲はしない意向を表明し、業界の重鎮として、新聞・雑誌に多数登場。講演活動も行い、数多くの提言を行った。私生活においては、剣道教士六段。
また、清水は多大な影響を受けた経営者として小松製作所元会長の河合良成の名前も挙げている[7]。ライフ・コーポレーション前身の清水実業時代に河合の顧問として7年間仕事を共にしたことがあり、会長室へも出入り自由とされて常に意思疎通しながら相談できる間柄であったという[7]。
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享年96歳 、誕生日 1926年4月18日、命日 2022年10月25日
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清水 信次(しみず のぶつぐ、1926年〈大正15年〉4月18日 - 2022年〈令和4年〉10月25日)は、日本の実業家。株式会社ライフコーポレーション創業者、日本スーパーマーケット協会および国民生活産業・消費者団体連合会(生団連)創立者、名誉会長。
スーパーマーケット「ライフ」を興し、売上高7,000億円という日本最大の食品スーパーマーケットチェーンを一代で築いた。ダイエーの中内㓛、セブン&アイホールディングスの鈴木敏文、イオンの岡田卓也らとともに戦後の流通業界を牽引した人物である。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
三重県津市生まれ。両親は大阪市天満で乾物・缶詰・青果などを販売する食料品店を営んでいた[1]。1944年(昭和19年)、陸軍に入隊して戦技特別研究要員(白兵戦、剣道助教)として中国に出征した。初年兵時代の戦友に後に不動産会社・秀和を起こしてバブル期には世界有数の富豪となった実業家・小林茂がいた。秀和は1980年代後半に流通株を買い占めるが(忠実屋・いなげや事件)、この背景には清水と小林の関係があった[2]。
1945年(昭和20年)、陸軍特別幹部候補生、本土防衛特別攻撃隊を経て、敗戦を迎える[3]。清水が戻った大阪は一面の焼け野原となっていた。当時19歳だった清水は、生き延びるため闇市で食品を売ったが、清水はこれ以降、食品流通・販売に終生携わることとなった。翌46年、大阪市天満に15坪の店舗兼自宅を構え、家業の食品卸売業 「清水商店」を継いで代表となった。東京のアメヤ横丁で買い占めた進駐軍の横流し物資を大阪で販売しはじめ、東京と大阪を行き来するうちにGHQと直接取引するようになった[1]。
貿易関連事業[編集]
1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が始まると、貿易の増加による物流需要の拡大を予測して単身上京。パイナップルやバナナの輸入業で利益を上げ、「パインちゃん」の異名をとる。またこの仕事を通じて、蓮舫の父で台湾人バナナ貿易商を営んでいた謝哲信と知り合い、家族ぐるみの交友を深めた[1]。現在も台湾財界人に知己が多い。1954年(昭和29年)、同志社大学を卒業した実弟の清水三夫が清水商店に入社し支配人となる。翌55年には謝らとバナナを輸入するための組合「日本バナナ輸入協会」などを設立した[1]。同年には財閥解体令が廃止され、次第に財閥系商社が復権したため、競合する貿易業から新事業への転換を図り[1]、食品スーパーを創業した。
ライフ・コーポレーション創業[編集]
1956年(昭和31年)、清水商店を母体に株式会社清水実業を設立して代表取締役社長となる。欧米視察をもとに、61年にライフストア(現:ライフコーポレーション)を設立、一号店を大阪府豊中市に開店し社長に就任し、三夫が専務となる。バナナの輸入業を続けながら10年がかりで10店舗まで増やし、以降軌道に乗る[1]。1977年(昭和52年)日韓協力委員会常任理事、日本チェーンストア協会副会長。
1978年(昭和53年)日本小売業協会常任理事。
1980年(昭和50年)日本バナナ輸入組合理事長[3]。
1982年(昭和57年)2月、ライフコーポレーションの株式上場を機に、社長職を三夫に譲り代表取締役会長となる。
1983年(昭和58年)、日本柑橘輸入協会副会長[3]。
1986年(昭和61年)、日本チェーンストア協会会長に就任、日本パインアップル輸入協会会長[3]。同年に藍綬褒章を受章している。
1988年(平成元年)、三夫が取締役に退いたため社長を兼務、日本パインアップル缶詰協会会長、全国スーパーマーケット協会名誉会長[3]。
1993年(平成5年)から06年まで国策研究会の理事長、12年から15年までは会長を務めた[4]。
1999年(平成11年)、日韓協力委員会副会長に就任[3]。また日本スーパーマーケット協会を設立して初代会長に就任した。
2002年(平成14年)、日本チェーンストア協会副会長、日本流通未来教育センター代表取締役会長。
2003年(平成15年)、日韓協力委員会理事長。
2006年(平成18年)3月、三菱商事からライフコーポレーションに出向していた岩崎高治を代表取締役社長兼COOとし、自身は代表取締役会長兼CEOに就任した。
2009年(平成21年)、日本流通産業代表取締役会長、日本スーパーマーケット協会名誉会長、新日本スーパーマーケット協会名誉会長、対外経済貿易大学客員教授[3]。
2011年(平成23年)、日本チェーンストア協会会長、国民生活産業・消費者団体連合会会長。
2013年(平成25年)、日韓協力委員会会長代行兼理事長。
2015年(平成27年)、日本小売業協会会長。
2017年(平成29年)、日本チェーンストア協会、国民生活産業・消費者団体連合会名誉会長[3]。
2021年(令和3年)、代表権を返上し取締役名誉会長に就任するが[5]、翌年5月27日付けで体力面が厳しいとの理由から取締役から退いた。名誉会長は続投[6]。子息などに世襲はしない意向を表明し、業界の重鎮として、新聞・雑誌に多数登場。講演活動も行い、数多くの提言を行った。私生活においては、剣道教士六段。
人物[編集]
経営政策研究所が発行していた経済誌『経営コンサルタント』では、清水は業界の会合やパーティーで必ずといっていいほど挨拶を頼まれ、気骨のある清水が挨拶すると場内がピシャリと決まると評された[7]。同誌のインタビューに清水は、尊敬する経済人としてそごうを経営していた水島廣雄を挙げている[7]。また、清水は多大な影響を受けた経営者として小松製作所元会長の河合良成の名前も挙げている[7]。ライフ・コーポレーション前身の清水実業時代に河合の顧問として7年間仕事を共にしたことがあり、会長室へも出入り自由とされて常に意思疎通しながら相談できる間柄であったという[7]。
著書[編集]
- 『時短は国を亡ぼす』出版:ネスコ、発売:文藝春秋、1994年1月1日。ISBN 4-89036-865-5
- 『清水信次の日本大改造私案』騎虎書房、1995年7月1日。ISBN 4-88693-500-1
- 『闘魂人生必勝の道 日本一の食品スーパー「ライフ」を築き上げた男』経済界、2001年3月1日。ISBN 4-7667-8218-6
- 『政治家は国のために死ね! 真の独立国家への提言 国民と国益を無視した政治・行政の大罪』財界研究所、2001年6月1日。ISBN 4-87932-017-X
- 『男の死に方―戦争で生き残ったものの責務』経済界、2009年6月1日。ISBN 978-4766784497
- 『惜別 さらばアメリカ』経済界、2009年7月1日。ISBN 978-4766784527
- 『いま伝えたい日本人の誇るべき真髄』経済界、 2014年5月24日。ISBN 978-4766740004
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