承継
この追悼サイトは、 田原 淳(心臓の房室結節を発見した病理学者)さまのために作成されました。

享年78歳 、誕生日 1873年7月5日、命日 1952年1月19日
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田原 淳(たわら すなお、たはら すなお[1]1873年7月5日[2] - 1952年1月19日)は、日本の病理学者

人物[編集]大分県東国東郡瀬戸田村(国東市安岐町)の中嶋家の長男として生まれる[2][3]。1889年に上京して東京英語学校と独逸学教会学校で学ぶ[2]。1892年、伯父の中津藩医・田原春塘の養子となる[2]

1898年第一高等学校卒業[2]1901年東京帝国大学医学部卒業[2]1903年に私費でドイツに留学し[4]小久保恵作の勧めにより[2]マールブルク大学の病理学教室でルードヴィッヒ・アショフLudwig Aschoff)に師事した[4]

ここで田原は心筋について研究を行い、1905年刺激伝導系の存在を明らかにし、刺激伝導系において重要な役割を持つ「房室結節(田原結節、田原・アショフ結節)」を発見した[2]細菌学全盛の当時は、心臓病に関して治療法はおろか診断法すらほとんど確立されていない時代であり、田原の発見はその後の心臓学の礎を築いた世界的な発見であった1906年、哺乳類の心筋に関する研究結果を『哺乳動物心臓の刺激伝導系』と題して発表した[2]。この研究により、100年以上にわたった心臓拍動に関する「神経原説」と「筋原説」の論争は筋原説の勝利で終わりを迎えた[2][5]。この研究により、1914年帝国学士院恩賜賞を受賞した[2]

1906年に帰国し[2]、京都帝国大学福岡医科大学(現九州大学医学部)病理学教室の助教授となり[2]1908年教授に就任[2]。当時、同教室は田原と中山平次郎の2教授制であったが、後に中山が考古学へ転向したため、実質的な教室運営は田原によって行われた。1932年に別府市に開設された同大付属の温泉医療学研究所の初代所長となる[2]。1933年、九州大学を定年退官[2]

田原の功績は、心電図による心臓病診断や心臓ペースメーカーの開発などに繋がった[6]九州大学馬出地区には田原の業績を顕彰した「田原通り」が存在する[7]

田原淳というと、心臓の中の「田原結節」を発見した医師として、一般に知られている。心房と心室の境にあるこの田原結節は、房室結節(Atrioventricular Node)と呼ばれ、通称“A-V node”と略称されることが多く、最近は田原結節とは呼ばれない。
田原結節の発見は、実際は偉大な業績のごく一部で、田原結節の下に続く「ヒス束」、さらに右脚と左脚を含んだプルキンエ繊維の末端までを連絡路を発見し、哺乳動物の「刺激伝導系」、すなわち心臓の興奮伝導のメカニズムを解明した。これはドイツ留学中のことで、かの地で200頁の「黄色い表紙の本・Das Reitzleitungssystem des Saugetierherzens(哺乳動物の心臓刺激伝導系)』を出版されて帰国された。
現在、死亡率第2位の原因になっている心臓病は、我々現代人にとって大きな関心事である。心電図診断法やペース・メーカー挿入術、心臓カテーテル造影術やステント法、またバイパス手術法など、素晴らしい治療法が発展しているが、この今日の心臓学の基礎を築いたのが、病理学者の田原淳である。

   田原淳博士 生誕150周年記念ミュージアム

  田原淳 田原淳の生家 大分県東国東郡西安岐村瀬戸田
        (現・国東市安岐町) 中嶋家

※注:このサイトは、田原淳に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2024年7月1日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
田原の功績は、心電図による心臓病診断や心臓ペースメーカーの発見に繋がり今日の治療法の発展の基となった。         合掌

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このメッセージは、 2024年7月1日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
田原の功績は、心電図による心臓病診断や心臓ペースメーカーの発見に繋がり今日の治療法の発展の基となった。         合掌