生い立ち
早川徳次翁は明治 26 年(1893 年)11 月 3 日東京日本橋生れ。氏は生後間もなく母親が病に倒れたため、1 歳 11 ヶ月のときから養父母に育てられた。養家の義父は人は良いが酒飲みで経済的には貧困だった。2 年後に義母が急病で他界。その翌年に 19 歳の後添がきて、幼い氏(徳次)につらくあたった。やがてこの義母に子どもができ、イジメがひどくなっていった。養子縁組の契約に従って小学校には入学させてもらったが、夜遅くまでマッチ箱張りの内職を手伝い、睡眠不足でしかも空腹が満たされない日々であった。このままでは命も危ないと感じた隣人(目の不自由なおばあちゃん)のお世話で、金属加工の町工場へ住み込みの奉公に出ることになった。小学校は 2 年生で中退。満 8 歳の時である。爾来約 10年間に亘り奉公生活を体験した。
起業家として
翌年8月に土地柄も性に合ったことから大阪で事業を興そうと決意した。 独創的な商品をいち早く市場に投入し「他社が真似するような商品を作れ」と口にしたことが原点だ。
経営理念には「いたずらに規模のみを追わず・・・」と書かれており、「身の丈経営」が育まれた。そうした企業風土は独自に開発に成功した液晶技術で飛躍し「液晶のシャープ」として企業の規模が拡大したころから変わっていった。
幼少時から苦労を重ねたためか、事業の第一目的は社会への奉仕と言い切っている。1944年(昭和19年)、失明軍人が働く「早川電機分工場」を開設。終戦により分工場は解散したが、1946年(昭和21年)に復職希望者7名により再開。1950年(昭和25年)に失明者工場を法人化して「合資会社特選金属工場」(現・シャープ特選工業株式会社)を設立する。視覚障害者自らが独立採算制で事業を経営する特選金属工場は広く知られ、1952年(昭和27年)には社会事業家の賀川豊彦が世界的富豪で慈善活動家のロックフェラーを伴い工場を視察。1954年(昭和29年)には三笠宮崇仁親王も訪問している。
経営理念には「いたずらに規模のみを追わず・・・」と書かれており、「身の丈経営」が育まれた。そうした企業風土は独自に開発に成功した液晶技術で飛躍し「液晶のシャープ」として企業の規模が拡大したころから変わっていった。
幼少時から苦労を重ねたためか、事業の第一目的は社会への奉仕と言い切っている。1944年(昭和19年)、失明軍人が働く「早川電機分工場」を開設。終戦により分工場は解散したが、1946年(昭和21年)に復職希望者7名により再開。1950年(昭和25年)に失明者工場を法人化して「合資会社特選金属工場」(現・シャープ特選工業株式会社)を設立する。視覚障害者自らが独立採算制で事業を経営する特選金属工場は広く知られ、1952年(昭和27年)には社会事業家の賀川豊彦が世界的富豪で慈善活動家のロックフェラーを伴い工場を視察。1954年(昭和29年)には三笠宮崇仁親王も訪問している。
事業内容
バンドのバックル(”徳尾錠”と命名)を発明し、大量の注文がきた
のが契機で独立した。独立に必要な資金は取引先の社長が氏を見込んで出資してくださった。独立して
3 年後に結婚(21 歳)。その翌年の大正 4 年にシャープペンシル(金属繰出鉛筆)を発明した。当時は和
服を着る人が多く、洋服向きのシャープペンシルは出足不調であった。
いろんなタイプのペンシルを作り、営業に努め、徐々に売上は伸張し工場も拡張、数年後には従業員も
200 人に達した。
国産第 1 号の鉱石ラジオの組み立てに成功。その 6 月に JOBK 仮放送所
国産第 1 号の鉱石ラジオの組み立てに成功。その 6 月に JOBK 仮放送所
が最初の電波を流し、見事試作のラジオが受信した。(従業員一同興奮状態だった由である。)早速量産・販売を開始し、ラジオ受信機事業は順調に拡大していった。
ラジオの次の事業として、テレビに注目していたが、昭和26年(1951年)にテレビ受像機の試作に
成功。翌27年渡米してRCAと技術提携し、昭和28年国産第1号白黒テレビを製造販売。いち早く量
産体制を築いた。(昭和29年育徳園保育所開設。理事長に就任。満60歳)
昭和30年以降も不景気や困難期はあったが、国産第1号の電子レンジ、世界初のIC電卓の開発・発
売など会社は概ね順調に推移していった。