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この追悼サイトは、 牧野 省三(「映画の父」と呼ばれた)さまのために作成されました。

享年50歳 、誕生日 1878年9月22日、命日 1929年7月25日
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牧野 省三(まきの しょうぞう、1878年9月22日 - 1929年7月25日)は、日本映画監督映画製作者脚本家実業家

日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いた人物でもある。「映画の父」と呼ばれたD・W・グリフィスになぞらえて「日本映画の父」と呼ばれた。千本座の経営者から映画製作に乗り出し、300本以上の時代劇映画を製作。尾上松之助とコンビを組み、彼の忍術映画でトリック撮影を駆使した歌舞伎講談立川文庫から題材を求め、「スジ、ヌケ、動作」を三大原則とした映画製作で大衆から支持を得た[1]その後マキノ・プロダクションを設立し、阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎高木新平月形龍之介市川右太衛門といったスター俳優や、監督の衣笠貞之助二川文太郎井上金太郎内田吐夢ら、脚本家の寿々喜多呂九平山上伊太郎らを育て上げた。

千本座を経営[編集]1901年(明治34年)、牧野家の地所内にあった約300坪の劇場・千本座を母とともに買収・改築し、9月1日に開場した[10]。元々千本座は薩摩の浪人竹内某が持ち主となっていたが、父の藤野が竹内と交渉した末に手に入れた[11][7]。省三は母親の経営を手伝いながら、自ら舞台に立って義太夫や芝居を披露した。また、この頃に材木問屋「石橋屋」の一人娘・多田ため(後の知世子)と結婚した[注釈 6][9][7]

その後25歳の時に、彌奈から千本座の経営を任され、旧劇や小芝居を上演したほか、横田商会の興行で活動写真の上映も行った。1904年(明治37年)、彌奈と大阪・九條繁栄座へ見物に行った際に尾上松之助を発見し、彼を招いて千本座に出演させた[12]。同年、モルガンお雪と失恋した省三がその実体験を基に書いた『モルガンお雪』を千本座で上演し、大当りする。

映画監督に[編集]1908年(明治41年)、千本座を活動写真興行に貸していた縁で、横田商会の横田永之助から映画製作を依頼される。省三は横田よりカメラとフィルムを借り受け、『本能寺合戦』を撮影。中村福之助嵐璃徳ら千本座の俳優を起用し、真如堂の境内で撮影を行った[13]。続けて横田の請負で『菅原伝授手習鑑』『明烏夢の泡雪』『児島高徳誉の桜』『安達原三段目袖萩祭文の場』『桜田騒動血染雪』を撮っているが、1本30円での請負ではやり切れなかったため、この5本限りで一旦映画製作を停止している[14]

1909年(明治42年)、5ヶ月ぶりに映画を製作し、『碁盤忠信 源氏礎』を撮る。同作にはこの年に千本座の座頭となった尾上松之助を起用し、松之助とのコンビ2作目の『石山軍記』では睨みをきかせて大きく見得を切る松之助の演技が好評を呼び、以来派手な立ち回りを得意とした松之助は「目玉の松ちゃん」と呼ばれて爆発的な人気を得た

マキノプロの設立[編集]牧野教育映画製作所は、大活や国際活映の人材を得て、自主製作・自主配給の機能も持てるようになり、1923年(大正12年)にはマキノ映画製作所に改組、時代劇や現代劇などの一般作品を製作していった。この時に阪東妻三郎をスターに育て上げ、寿々喜多呂九平二川文太郎などの若き映画人たちを育成した。そんな20前後の若いスタッフたちの自由な発想で作ったリアルな剣戟映画は人気を呼んだ。

1924年(大正13年)8月、東亜キネマに吸収合併され、東亜キネマ甲陽撮影所と等持院撮影所の所長に就任した。1925年(大正14年)1月、新国劇澤田正二郎主演の『国定忠治』を公開し、大成功を収める。同年6月、ふたたび独立してマキノ・プロダクションを設立した。

1927年(昭和2年)1月、大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始。 この年は松竹帝国キネマも忠臣蔵を題材とした映画製作を発表しており、三社による競作は話題を呼んだ[15]が製作サイドにはプレッシャーが掛かる状態となった。

大石内蔵助役に候補があげられていた實川延若松本幸四郎が辞退し、最終的には新派の大幹部であった伊井蓉峰が大石役に決まったものの、牧野の希望とは正反対の演技をしてしまったり、当初片岡千恵蔵が演じることに決まっていた浅野内匠頭諸口十九に演じさせ、不満に感じた千恵蔵が牧野を脱退し、これに続いて嵐寛寿郎ら50名の俳優が脱退してしまう。さらに、編集中にネガを引火させてしまい自宅が全焼するなど、様々なトラブルを引き起こし、不完全な公開となってしまう。

その後、ディスク式トーキーの研究に取り組み、1929年(昭和4年)に国産ディスク式トーキーの『戻橋』を完成させている。

160px-Toji-in_Temple_140529NI1.JPG等持院境内にある「マキノ省三先生像」同年6月、持病の糖尿病に加え神経衰弱も加わり床に伏すようになる。同年7月24日には病状が悪化して翌7月25日心臓麻痺で死去[16]、50歳没。監督としての遺作は1928年(昭和3年)公開の『雷電』だった。葬儀は御室撮影所で営まれ、池永浩久が葬儀委員長を務めた[17]。この様子を映した記録映画が現存しており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。墓は等持院にあり、墓所の前には「マキノ省三先生像」と彫られた銅像が建っている。

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YOHO_II.JPEG 「実録忠臣蔵」(1928年マキノ)
左よりマキノ雅弘(大石主税)、マキノ智子、伊井容峰(大石内蔵助)
(「シネマがやってきた」101ページ)

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軌跡

(生い立ち)

1878年(明治11年)9月22日京都府北桑田郡山国村京北町を経て現・京都市右京区)に生まれる。父は漢方医幕末の勤王派農兵隊・山国隊の西軍沙汰人(部隊副官)であった藤野齋[注釈 1]、母は娘義太夫師の竹本弥奈吉(牧野彌奈)である。兄と妹が一人ずついる[注釈 2]

省三は非嫡出子であったため、彌奈の子として育てられた。彌奈の実家は禁裡御用を務める左官屋で、御所の前に家を構えていた[5]。当時、彌奈は大野屋[注釈 3]という寄席と上七軒で置屋を経営しており、西陣の旦那衆に義太夫を教えていた[6][7]。その母の影響で省三は幼少時から芸事に親しみ、近所の子供たちと芝居ごっこに熱中していた[8]。彌奈の姉弟子である竹本綱尾[注釈 4]から義太夫を習い、中村廷笑[注釈 5]から芝居道の故実を学んだ[9]