この追悼サイトは、 藤沢 周平(時代小説作家)さまのために作成されました。
享年69歳 、誕生日 1927年12月26日、命日 1997年1月26日
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藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい、1927年(昭和2年)12月26日 - 1997年(平成9年)1月26日)は、日本の小説家。山形県鶴岡市出身。本名:小菅 留治(こすげ とめじ)。
江戸時代[注 1]を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残した[2]。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名である。
長女遠藤展子は、エッセイスト。2010年(平成22年)4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館した。
1949年(昭和24年)、山形師範学校を卒業後、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)へ赴任し[9]、国語と社会を担当。1951年(昭和26年)、『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加した。優秀な教師として将来を嘱望され、教え子たちからも「体格がよく、スポーツマンで、色白で二枚目の素敵な先生」と慕われた。当時、この地方では師範学校卒の教師はエリートであり、順調な人生を歩み始めた。しかし、この年3月の集団検診で当時不治の病とされた肺結核が発見され、休職を余儀なくされる[10]。
1952年(昭和27年)2月、東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、保生園病院において右肺上葉切除の大手術を受けた。予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、静岡県の俳誌『海坂』(百合山羽公、相生垣瓜人主宰)に投稿をおこなうようになる。北邨という俳号を用いた。またこの時期に大いに読書に励み、ことに海外小説に親しみ、作家生活の素地を完成させた。
1959年(昭和34年)、三浦悦子と結婚。8歳年下の同郷者であった。1960年(昭和35年)に株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となる。以後作家生活に専念するまで同社に勤務、記者としての仕事は、本人の性にあっており、精力的に取材執筆を行う。のちに同紙編集長に昇進し、ハム・ソーセージ業界について健筆を振るい、業界の健全化に尽力した。コラム「甘味辛味」をほとんど一人で執筆。[12]取材先の一つで日本ハム創業者で当時社長の大社義規とは信頼関係を結んだ[13]。その傍(かたわ)ら文学への情熱やみがたく、勤務の傍(かたわ)らこつこつと小説を書きつづけていた。当時はもっぱら純文学を志していたらしい(1963年(昭和38年)には、読売新聞短編小説賞に『赤い夕日』が選外佳作となった)。
1963年(昭和38年)、長女・展子が生まれ、清瀬市上清戸で間借り生活を始めるも、同年10月に妻・悦子が急性の癌により[14]急死(28歳)。このことに強い衝撃を受け、同市内で引っ越しをしつつ、やり場のない虚無感をなだめるために時代小説の筆を執るようになる。主に大衆的な「倶楽部雑誌」に短編を発表(『藤沢周平 未刊行初期短編』に収録)。藤沢作品の初期に特徴的な、救いのない暗い雰囲気とヒロインの悲劇には、妻の死がつよく影響を与えていると思われる。翌年以降、毎年のようにオール讀物新人賞に投稿を始める。1965年(昭和40年)から藤沢周平のペンネームを使いはじめた。「藤沢」は悦子の実家のある地名(鶴岡市藤沢)から、「周」の字は悦子の親族の名から採られている[15]。
妻の没後は、郷里から呼び寄せた母、長女との三人暮らしとなり、目の悪い母を看病しつつ育児を行い、編集長の激務の傍ら5年独身で過ごす。再婚話は中々まとまらなかった。[16]1969年(昭和44年)、高澤和子と再婚。長女とあわせて三人家族となり、疲労困憊していた家事から解放され、週末は小説執筆に専念できるようになった。1970年(昭和45年)に東久留米市に引っ越しをし、1971年(昭和46年)、ついに 『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を受賞。直木賞候補となり、1972年(昭和47年)『暗殺の年輪』で第69回直木賞。記者仲間や大社らに祝われ、編集長の傍ら新進の時代小説作家として認められるようになる。この年最初の作品集『暗殺の年輪』を文藝春秋より刊行し、翌1974年(昭和49年)には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る。
1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする(『時雨みち』『霜の朝』『龍を見た男』などの短篇集に所収)一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだす。
1980年(昭和55年)に町人ものの『橋ものがたり』、捕物帳の『霧の果て-神谷玄次郎捕物控』、獄医立花登ものの第一作となる『春秋の檻-獄医立花登手控え』、『用心棒日月抄』の第二部『孤剣』、翌1981年(昭和56年)にはユーモア色を生かした『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』と立花登ものの第二作『風雪の檻』、1982年(昭和57年)には同じく『愛憎の檻』、1983年(昭和58年)には『用心棒日月抄』の系統を生かした『よろずや平四郎活人剣』、立花登第三作『人間の檻』、『用心棒日月抄』の第三作『刺客』などがある。
1984年(昭和59年)以降になると、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作が相次いで発表・刊行されるようになる。すでに1980年(昭和55年)に唯一の伝奇小説『闇の傀儡師』、1982年(昭和57年)に江戸のハードボイルドを狙ったといわれる彫師伊之助ものの第二作『漆黒の霧の中で-彫師伊之助捕物覚え』が上梓されているが、1984年(昭和59年)には江戸を舞台にした恋愛小説『海鳴り』、1985年(昭和60年)には武家青春小説とお家騒動ものの系譜の集大成ともいえる『風の果て』と伊之助もの第三作『ささやく河』、1988年(昭和63年)には代表作との誉れが高い『蟬しぐれ』が刊行され、いずれも高い人気を得た。
著書[編集]シリーズ作品[編集]
鶴岡市立藤沢周平記念館 山形県鶴岡市馬場町4-6(鶴岡公園内) 0235-29-1880
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享年69歳 、誕生日 1927年12月26日、命日 1997年1月26日
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藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい、1927年(昭和2年)12月26日 - 1997年(平成9年)1月26日)は、日本の小説家。山形県鶴岡市出身。本名:小菅 留治(こすげ とめじ)。
江戸時代[注 1]を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残した[2]。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名である。
長女遠藤展子は、エッセイスト。2010年(平成22年)4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館した。
1949年(昭和24年)、山形師範学校を卒業後、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)へ赴任し[9]、国語と社会を担当。1951年(昭和26年)、『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加した。優秀な教師として将来を嘱望され、教え子たちからも「体格がよく、スポーツマンで、色白で二枚目の素敵な先生」と慕われた。当時、この地方では師範学校卒の教師はエリートであり、順調な人生を歩み始めた。しかし、この年3月の集団検診で当時不治の病とされた肺結核が発見され、休職を余儀なくされる[10]。
1952年(昭和27年)2月、東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、保生園病院において右肺上葉切除の大手術を受けた。予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、静岡県の俳誌『海坂』(百合山羽公、相生垣瓜人主宰)に投稿をおこなうようになる。北邨という俳号を用いた。またこの時期に大いに読書に励み、ことに海外小説に親しみ、作家生活の素地を完成させた。
1959年(昭和34年)、三浦悦子と結婚。8歳年下の同郷者であった。1960年(昭和35年)に株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となる。以後作家生活に専念するまで同社に勤務、記者としての仕事は、本人の性にあっており、精力的に取材執筆を行う。のちに同紙編集長に昇進し、ハム・ソーセージ業界について健筆を振るい、業界の健全化に尽力した。コラム「甘味辛味」をほとんど一人で執筆。[12]取材先の一つで日本ハム創業者で当時社長の大社義規とは信頼関係を結んだ[13]。その傍(かたわ)ら文学への情熱やみがたく、勤務の傍(かたわ)らこつこつと小説を書きつづけていた。当時はもっぱら純文学を志していたらしい(1963年(昭和38年)には、読売新聞短編小説賞に『赤い夕日』が選外佳作となった)。
1963年(昭和38年)、長女・展子が生まれ、清瀬市上清戸で間借り生活を始めるも、同年10月に妻・悦子が急性の癌により[14]急死(28歳)。このことに強い衝撃を受け、同市内で引っ越しをしつつ、やり場のない虚無感をなだめるために時代小説の筆を執るようになる。主に大衆的な「倶楽部雑誌」に短編を発表(『藤沢周平 未刊行初期短編』に収録)。藤沢作品の初期に特徴的な、救いのない暗い雰囲気とヒロインの悲劇には、妻の死がつよく影響を与えていると思われる。翌年以降、毎年のようにオール讀物新人賞に投稿を始める。1965年(昭和40年)から藤沢周平のペンネームを使いはじめた。「藤沢」は悦子の実家のある地名(鶴岡市藤沢)から、「周」の字は悦子の親族の名から採られている[15]。
妻の没後は、郷里から呼び寄せた母、長女との三人暮らしとなり、目の悪い母を看病しつつ育児を行い、編集長の激務の傍ら5年独身で過ごす。再婚話は中々まとまらなかった。[16]1969年(昭和44年)、高澤和子と再婚。長女とあわせて三人家族となり、疲労困憊していた家事から解放され、週末は小説執筆に専念できるようになった。1970年(昭和45年)に東久留米市に引っ越しをし、1971年(昭和46年)、ついに 『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を受賞。直木賞候補となり、1972年(昭和47年)『暗殺の年輪』で第69回直木賞。記者仲間や大社らに祝われ、編集長の傍ら新進の時代小説作家として認められるようになる。この年最初の作品集『暗殺の年輪』を文藝春秋より刊行し、翌1974年(昭和49年)には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る。
1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする(『時雨みち』『霜の朝』『龍を見た男』などの短篇集に所収)一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだす。
1980年(昭和55年)に町人ものの『橋ものがたり』、捕物帳の『霧の果て-神谷玄次郎捕物控』、獄医立花登ものの第一作となる『春秋の檻-獄医立花登手控え』、『用心棒日月抄』の第二部『孤剣』、翌1981年(昭和56年)にはユーモア色を生かした『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』と立花登ものの第二作『風雪の檻』、1982年(昭和57年)には同じく『愛憎の檻』、1983年(昭和58年)には『用心棒日月抄』の系統を生かした『よろずや平四郎活人剣』、立花登第三作『人間の檻』、『用心棒日月抄』の第三作『刺客』などがある。
1984年(昭和59年)以降になると、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作が相次いで発表・刊行されるようになる。すでに1980年(昭和55年)に唯一の伝奇小説『闇の傀儡師』、1982年(昭和57年)に江戸のハードボイルドを狙ったといわれる彫師伊之助ものの第二作『漆黒の霧の中で-彫師伊之助捕物覚え』が上梓されているが、1984年(昭和59年)には江戸を舞台にした恋愛小説『海鳴り』、1985年(昭和60年)には武家青春小説とお家騒動ものの系譜の集大成ともいえる『風の果て』と伊之助もの第三作『ささやく河』、1988年(昭和63年)には代表作との誉れが高い『蟬しぐれ』が刊行され、いずれも高い人気を得た。
著書[編集]シリーズ作品[編集]
- 用心棒日月抄シリーズ
- 用心棒日月抄(新潮社 1978年 のち文庫)
- 孤剣 用心棒日月抄(新潮社 1980年 のち文庫)
- 刺客 用心棒日月抄(新潮社 1983年 のち文庫)
- 凶刃 用心捧日月抄(新潮社 1991年 のち文庫)
- 彫師伊之助捕物覚えシリーズ
- 獄医立花登手控えシリーズ
- 春秋の檻 獄医立花登手控え1(講談社 1980年 のち文庫、文春文庫)
- 風雪の檻 獄医立花登手控え2(講談社 1981年 のち文庫、文春文庫)
- 愛憎の檻 獄医立花登手控え3(講談社 1982年 のち文庫、文春文庫)
- 人間の檻 獄医立花登手控え4(講談社 1983年 のち文庫、文春文庫)
- 隠し剣シリーズ
- 隠し剣孤影抄(文藝春秋 1981年 のち文庫)
- 隠し剣秋風抄(文藝春秋 1981年 のち文庫)
鶴岡市立藤沢周平記念館 山形県鶴岡市馬場町4-6(鶴岡公園内) 0235-29-1880
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(受賞歴)
受賞歴[編集]
- 1971年(昭和46年) - 「溟い海」で、第38回オール讀物新人賞受賞。
- 1973年(昭和48年) - 「暗殺の年輪」で、第69回直木三十五賞受賞。
- 1986年(昭和61年) - 「白き瓶」で、第20回吉川英治文学賞受賞。
- 1989年(平成元年) - 「市塵」で、第40回芸術選奨文部大臣賞受賞。
- 1989年(平成元年) - 作家生活全体の功績に対して、第37回菊池寛賞受賞。
- 1994年(平成6年) - 朝日賞受賞[23]。第10回東京都文化賞受賞。
- 1995年(平成7年) - 紫綬褒章受章。
- 1997年(平成9年) - 鶴岡市特別顕彰、山形県県民栄誉賞受賞。
- 2022年(令和4年) - 「小説の周辺」で第8回魯迅文学賞(中国)受賞[24]。