この追悼サイトは、 トーベ・ ヤンソン(フインランドの作家、代表作「ムーミン」)さまのために作成されました。
享年86歳 、誕生日 1914年8月9日、命日 2001年6月27日
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トーベ・マリカ・ヤンソン(Tove Marika Jansson [tuːve mariːka jɑːnsɔn] ( 音声ファイル)1914年8月9日 - 2001年6月27日)は、フィンランドのヘルシンキ生まれのスウェーデン系フィンランド人の画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家。日本語表記にはトーヴェ・ヤンソンもある[1]。
創作領域は絵画、小説、コミックス、脚本、詩、作詞、広告など多岐にわたり、『ムーミン』シリーズの作者として世界的に有名となった[2]。読者層は幅広く、「9歳から90歳まで」とも表現される[3]。フィンランドでは画家としての評価も高く、水彩画や油彩画、雑誌の風刺画や公共建築の壁画など多くの作品を残している。
トーベが誕生した8月9日は日曜日で、シグネは翌8月10日に「私たちの日曜日の子についての本」を書き、娘の姿を似顔絵と文章で表した[10]。トーベという名前は、北欧神話の神トールに由来するデンマーク系の表記から付けられた[注釈 2][11]。シグネがスケッチをした1歳半のトーベはテーブルの紙に絵を描いており、歩くより前に描くことを覚えていた様子がうかがえる[12]。
フィンランドは1917年2月の独立宣言でロシアから独立し、1918年にはフィンランド内戦が起きた[注釈 3][13]。ヴィクトルも兵士となり、シグネは戦火を避けて娘とともに故郷のストックホルムで暮らした。シグネはトーベの写真や、トーベが描いた絵を戦地のヴィクトルに送った[14]。ヴィクトルは戦地からの手紙で、娘が芸術家になると思うと書き残している[15]。幼少期のトーベは、シグネの仕事を見ているうちに真似をするようになり、やがて話を考えるところから本を作るところまでを1人でするようになった[16]。
学校はコルケアヴオリ通り23番にあり、ヴィクトルの母校でもあるスウェーデン語系の共学校だった。しかしトーベには規律と詰め込み教育が合わず、のちに「学校のことでよい記憶はほとんどない、というよりも、ほとんど記憶がない」と語っている[21]。トーベはロフトを使って挿絵付きの冊子を自作し、1927年に『サボテンのこぶ』、1928年に『クリスマスソーセージ』という雑誌を作って学校で販売した[22]。夏になると、ヤンソン家はスウェーデンの親戚がいるペッリンゲ群島のブリデー島に行き、トーベは島の暮らしを好んだ[注釈 5][24]。ペッリンゲ群島での体験は、のちのムーミン・シリーズなどの作品の題材となった[注釈 6][26]。
1927年にヒューヴドスタッドブラーデット紙がヤンソン家の取材に訪れた際、トーベは記者のエステル・オーケソンと知り合った[注釈 7][28]。オーケソンの仲介で、トーベは14歳の時にスウェーデン語系の週刊誌『アッラス・クレーニカ(みんなの記録)』に詩と絵を発表し、これが作家デビューとなった。1928年5月にはマンネルヘイム大統領の讃歌を制作し、作者名はトット(Totto)という若い女性として紹介された[29]。
1929年11月には政治風刺を中心とするスウェーデン語系の雑誌『ガルム』に最初の風刺画が掲載された[注釈 8][31]。絵につける文章はシグネとともに考え、出版記録をつけ始めた[注釈 9]。オーケソンの担当によって同誌で絵物語の連載が始まり、『プリッキナとファビアナの冒険』という2匹の幼虫を主人公にしたラブコメディーだった。作者名にはトーベ(Tove)が使われ、プロとしてのスタートとなった。トーベは作品が家計の助けになることを経験したが、印刷された表紙の出来が想像と違っていたため失望した。それ以降、色などの指示を編集者や出版社、印刷担当者に伝えるようになった[33]。
挿絵や物語の仕事と並行して、本の自作を続けた。物語への関心が高まったトーベは、『見えない力』というノート2冊分の長い物語も描くようになった。出版社に作品の持ち込みを始め、『サラとペッレと水の精のタコ(フィンランド語版)』という作品はティグルマン社で出版が決まる。しかし企画は5年間延期され、1933年に出版された時の作者名はヴェーラ・ハイとなった[注釈 10][34]。
フィンランド人の芸術家が集まるサン・ジャック通り(フランス語版)のオテル・デ・テラスに引っ越したトーベは、美術学校のエコール・デ・ボザールに入学した。アンリ・マティスを敬愛するトーベは、マティスにゆかりがある学校として期待していたが、教授の指導や先輩との関係になじめず2週間で通うのをやめた[注釈 16][54]。他方でスイス人のアドリアン・オリーが設立したアトリエでは自分のペースで制作ができたので、トーベはそこに留まった。オリーは芸術家自身に自分の道を決めさせる教育方針をとっており、トーベが自分のスタイルを決める助けになった[53]。6月にはブルターニュも旅行した[55]。
1939年には新たな奨学金を得てイタリア王国を旅行し、パドヴァやフィレンツェの美術館、博物館、修道院、教会をめぐった。トーベはジョットをはじめとするルネサンス芸術を好んだ。イタリア旅行の時期には戦争の気配も近づいており、黒シャツ隊やナチス・ドイツを批判する意見を書き残している[56]。イタリアで最も印象に残ったのはヴェスヴィオ火山の噴火と月の光で、手紙で詳しく描写している[注釈 17][57]。
第二次大戦期
パリ生活をヒントにして芸術家の暮らしを書いた短編「あごひげ」などの作品が好評を呼び、トーベの名は次第に知られていった。また、『ガルム』誌の風刺画はヒトラーやスターリンも題材にして、風刺画家として人気を呼んだ。のちのムーミンとなるキャラクターも『ガルム』で1943年に初登場した(後述)[63]。親戚や友人に会うことを避け、戦意高揚的なものからは距離を置いて制作に集中した
ムーミンの物語はトーベの励みになり、2作目の執筆を始める。トーベはアトスとともに彼の故郷のオーランド諸島を訪ねて、北部のサルトヴィーク(英語版)で1945年の夏をすごし、オーランドの風景をムーミンの世界に活かした。当初のタイトルは『ムーミントロールと恐怖の彗星』で、アトスはトーベの草稿に肯定的なアドバイスを書き、トーベは執筆に熱中した。1946年秋に2作目が『彗星追跡』(のちの『ムーミン谷の彗星』)というタイトルで出版された頃には、トーベは3作目の『たのしいムーミン一家』の執筆を始めていた[76]。1946年の秋には、演出家のヴィヴィカ・バンドレル(英語版)と出会った[77]。トーベにとってヴィヴィカは初の同性の恋人となった。トーベはヴィヴィカによって絵が豊かになり、無駄な名誉欲から解放されたと感じた[78]。
画業では1960年に再出発を決め、絵画作品の署名は「Tove」から「Jansson」に変えた[92]。執筆業では大人向けの小説が増え、最初の短編小説集『聴く女』(1971年)から1980年代にかけて長編小説3冊と短編小説集5冊を発表した[93][94]。それまでの作品を演劇、映画、テレビ、ラジオなどのメディアに合わせるための脚本も執筆した[85]。1971年にはフジテレビ放送のアニメ『ムーミン』放映の仕事でトゥーリッキと来日し、その後世界一周旅行を続けた。1990年にはテレビ東京放送のアニメ『楽しいムーミン一家』の監修で来日した[注釈 27][95]。
クルーヴ島での暮らしには不自由な点も多く、年齢による体力の変化も気がかりとなった。トーベとトゥーリッキは1992年に島を明け渡し、1965年から毎年続けてきた島の暮らしを終えた[96]。1990年代に癌をわずらい、公の場に姿を見せたのは1994年にタンペレで開催された国際会議が最後となった[97]。最後の作品として短編小説集『メッセージ』(1998年)を発表したのち、2001年にヘルシンキで死去した[98][99]。
ウッランリンナ1番地のアトリエのトーベ
※注:このサイトは、トーベ・ヤンソンに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年86歳 、誕生日 1914年8月9日、命日 2001年6月27日
※ トーベ・さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
トーベ・マリカ・ヤンソン(Tove Marika Jansson [tuːve mariːka jɑːnsɔn] ( 音声ファイル)1914年8月9日 - 2001年6月27日)は、フィンランドのヘルシンキ生まれのスウェーデン系フィンランド人の画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家。日本語表記にはトーヴェ・ヤンソンもある[1]。
創作領域は絵画、小説、コミックス、脚本、詩、作詞、広告など多岐にわたり、『ムーミン』シリーズの作者として世界的に有名となった[2]。読者層は幅広く、「9歳から90歳まで」とも表現される[3]。フィンランドでは画家としての評価も高く、水彩画や油彩画、雑誌の風刺画や公共建築の壁画など多くの作品を残している。
生涯[編集]
幼少期[編集]
1914年8月9日、フィンランド大公国ヘルシンキで生まれた。母親はスウェーデン=ノルウェー出身の画家のシグネ・ハンマシュティエン=ヤンソン[4]、父親はスウェーデン語系フィンランド人の彫刻家のヴィクトル・ヤンソン(英語版)だった[5]。1910年、シグネとヴィクトルはパリのグランド・ショミエール芸術学校に留学した時に出会い[6]、1913年に結婚してモンパルナスで生活を始めた[7]。しかし生活費がかさんで国からの留学資金が尽きるという経済的な事情や、1914年の第一次世界大戦の勃発によって、フィンランドへと引っ越した[注釈 1][7]。フィンランドではフィンランド語とスウェーデン語が公用語だったが、スウェーデン語の話者は少なく、ヤンソン家は言語面で少数派だった[9]。トーベが誕生した8月9日は日曜日で、シグネは翌8月10日に「私たちの日曜日の子についての本」を書き、娘の姿を似顔絵と文章で表した[10]。トーベという名前は、北欧神話の神トールに由来するデンマーク系の表記から付けられた[注釈 2][11]。シグネがスケッチをした1歳半のトーベはテーブルの紙に絵を描いており、歩くより前に描くことを覚えていた様子がうかがえる[12]。
フィンランドは1917年2月の独立宣言でロシアから独立し、1918年にはフィンランド内戦が起きた[注釈 3][13]。ヴィクトルも兵士となり、シグネは戦火を避けて娘とともに故郷のストックホルムで暮らした。シグネはトーベの写真や、トーベが描いた絵を戦地のヴィクトルに送った[14]。ヴィクトルは戦地からの手紙で、娘が芸術家になると思うと書き残している[15]。幼少期のトーベは、シグネの仕事を見ているうちに真似をするようになり、やがて話を考えるところから本を作るところまでを1人でするようになった[16]。
子供時代、作家デビュー[編集]
1923年のトーベヤンソン家はヘルシンキのルオッツィ通り4番のアトリエで暮らしたのち、芸術家向けの集合住宅ラッルッカに引っ越した[注釈 4]。トーベや弟たちは、芸術と家庭が混ざり合う環境で育った[18]。ヴィクトルの彫刻家としての生計は不安定で、作品の依頼と助成金の他ではコンペの賞金が重要だった。シグネは1924年にフィンランド銀行印刷局のパートに採用され、それが家庭で唯一の定収入だった[9]。1920年代のシグネは小説、詩集、辞典などの挿絵も描いていた[19]。トーベは子供の頃から家計を心配し、絵の仕事で母を助けたいと口にしたり、日記に書いている[20]。学校はコルケアヴオリ通り23番にあり、ヴィクトルの母校でもあるスウェーデン語系の共学校だった。しかしトーベには規律と詰め込み教育が合わず、のちに「学校のことでよい記憶はほとんどない、というよりも、ほとんど記憶がない」と語っている[21]。トーベはロフトを使って挿絵付きの冊子を自作し、1927年に『サボテンのこぶ』、1928年に『クリスマスソーセージ』という雑誌を作って学校で販売した[22]。夏になると、ヤンソン家はスウェーデンの親戚がいるペッリンゲ群島のブリデー島に行き、トーベは島の暮らしを好んだ[注釈 5][24]。ペッリンゲ群島での体験は、のちのムーミン・シリーズなどの作品の題材となった[注釈 6][26]。
1927年にヒューヴドスタッドブラーデット紙がヤンソン家の取材に訪れた際、トーベは記者のエステル・オーケソンと知り合った[注釈 7][28]。オーケソンの仲介で、トーベは14歳の時にスウェーデン語系の週刊誌『アッラス・クレーニカ(みんなの記録)』に詩と絵を発表し、これが作家デビューとなった。1928年5月にはマンネルヘイム大統領の讃歌を制作し、作者名はトット(Totto)という若い女性として紹介された[29]。
1929年11月には政治風刺を中心とするスウェーデン語系の雑誌『ガルム』に最初の風刺画が掲載された[注釈 8][31]。絵につける文章はシグネとともに考え、出版記録をつけ始めた[注釈 9]。オーケソンの担当によって同誌で絵物語の連載が始まり、『プリッキナとファビアナの冒険』という2匹の幼虫を主人公にしたラブコメディーだった。作者名にはトーベ(Tove)が使われ、プロとしてのスタートとなった。トーベは作品が家計の助けになることを経験したが、印刷された表紙の出来が想像と違っていたため失望した。それ以降、色などの指示を編集者や出版社、印刷担当者に伝えるようになった[33]。
挿絵や物語の仕事と並行して、本の自作を続けた。物語への関心が高まったトーベは、『見えない力』というノート2冊分の長い物語も描くようになった。出版社に作品の持ち込みを始め、『サラとペッレと水の精のタコ(フィンランド語版)』という作品はティグルマン社で出版が決まる。しかし企画は5年間延期され、1933年に出版された時の作者名はヴェーラ・ハイとなった[注釈 10][34]。
工芸専門学校、アテネウム[編集]
1930年5月にトーベは学校を自主退学し、9月30日にシグネの母校でもあるストックホルム工芸専門学校(スウェーデン語版)に入学した。叔父のエイナルの家から通学し、女子学生クラスB部で美術学生として広告やデザインを勉強して技法の授業を特に楽しみとした[注釈 11]。型にはまった授業や生活には慣れなかったが、芸術家を目指す仲間との出会いは楽しんだ。家計を助けたいという考えもあり、進級について悩み続けた[注釈 12]。進級後は美術工芸と印刷を学び、1933年に修了した際には装飾絵画で最高成績が与えられた[37]。絵画クラスには名物教授として知られるオスカル・ブランドベリがおり、ブランドベリはトーベのテンペラ画を見て美大への受験を薦めた。しかし、トーベは美大を受験せず、卒業後は家族のもとへ帰ることを決める[38]。トーベが1933年に工芸専門学校を卒業した際、旅費の問題でシグネは卒業式に出席できなかった[39]。遊学[編集]
フィンランド国内の言語闘争が続いていた1938年1月、トーベはパリで生活を始めた。留学費用は、クレヨン・コンテ社の絵画コンクールに入賞した賞金などでまかなった[51]。モンパルナスとセーヌ川の左岸を拠点とし、日中はリュクサンブール公園で過ごした。家族に向けた手紙には地図を描いて送り、学んだことをフランス語で記録した。この時期に、かつて両親が住んでいたモンパルナスの一角も訪ねている[52]。フィンランド人の芸術家が集まるサン・ジャック通り(フランス語版)のオテル・デ・テラスに引っ越したトーベは、美術学校のエコール・デ・ボザールに入学した。アンリ・マティスを敬愛するトーベは、マティスにゆかりがある学校として期待していたが、教授の指導や先輩との関係になじめず2週間で通うのをやめた[注釈 16][54]。他方でスイス人のアドリアン・オリーが設立したアトリエでは自分のペースで制作ができたので、トーベはそこに留まった。オリーは芸術家自身に自分の道を決めさせる教育方針をとっており、トーベが自分のスタイルを決める助けになった[53]。6月にはブルターニュも旅行した[55]。
1939年には新たな奨学金を得てイタリア王国を旅行し、パドヴァやフィレンツェの美術館、博物館、修道院、教会をめぐった。トーベはジョットをはじめとするルネサンス芸術を好んだ。イタリア旅行の時期には戦争の気配も近づいており、黒シャツ隊やナチス・ドイツを批判する意見を書き残している[56]。イタリアで最も印象に残ったのはヴェスヴィオ火山の噴火と月の光で、手紙で詳しく描写している[注釈 17][57]。
第二次大戦期
パリ生活をヒントにして芸術家の暮らしを書いた短編「あごひげ」などの作品が好評を呼び、トーベの名は次第に知られていった。また、『ガルム』誌の風刺画はヒトラーやスターリンも題材にして、風刺画家として人気を呼んだ。のちのムーミンとなるキャラクターも『ガルム』で1943年に初登場した(後述)[63]。親戚や友人に会うことを避け、戦意高揚的なものからは距離を置いて制作に集中した
ムーミン・シリーズの制作[編集]
1956年のトーベトーベは以前からスノークと呼んでいたキャラクターを、1944年春にムーミントロールとしてあらためて物語に書いた。原稿を読んだアトスは好意的なコメントをして、5月になるとトーベは原稿をセーデルストレム社に持ち込んだ。1945年に最初のムーミンの物語が『小さなトロールと大きな洪水』という書名で出版され、スウェーデンでもハッセルグレン社から出版された[注釈 23][73]。フィンランドではトーベは有望な芸術家とみなされていたが、『小さなトロールと大きな洪水』の出版時に書評をしたのはグールドン・モーネだけだった[注釈 24][74]ムーミンの物語はトーベの励みになり、2作目の執筆を始める。トーベはアトスとともに彼の故郷のオーランド諸島を訪ねて、北部のサルトヴィーク(英語版)で1945年の夏をすごし、オーランドの風景をムーミンの世界に活かした。当初のタイトルは『ムーミントロールと恐怖の彗星』で、アトスはトーベの草稿に肯定的なアドバイスを書き、トーベは執筆に熱中した。1946年秋に2作目が『彗星追跡』(のちの『ムーミン谷の彗星』)というタイトルで出版された頃には、トーベは3作目の『たのしいムーミン一家』の執筆を始めていた[76]。1946年の秋には、演出家のヴィヴィカ・バンドレル(英語版)と出会った[77]。トーベにとってヴィヴィカは初の同性の恋人となった。トーベはヴィヴィカによって絵が豊かになり、無駄な名誉欲から解放されたと感じた[78]。
画業では1960年に再出発を決め、絵画作品の署名は「Tove」から「Jansson」に変えた[92]。執筆業では大人向けの小説が増え、最初の短編小説集『聴く女』(1971年)から1980年代にかけて長編小説3冊と短編小説集5冊を発表した[93][94]。それまでの作品を演劇、映画、テレビ、ラジオなどのメディアに合わせるための脚本も執筆した[85]。1971年にはフジテレビ放送のアニメ『ムーミン』放映の仕事でトゥーリッキと来日し、その後世界一周旅行を続けた。1990年にはテレビ東京放送のアニメ『楽しいムーミン一家』の監修で来日した[注釈 27][95]。
クルーヴ島での暮らしには不自由な点も多く、年齢による体力の変化も気がかりとなった。トーベとトゥーリッキは1992年に島を明け渡し、1965年から毎年続けてきた島の暮らしを終えた[96]。1990年代に癌をわずらい、公の場に姿を見せたのは1994年にタンペレで開催された国際会議が最後となった[97]。最後の作品として短編小説集『メッセージ』(1998年)を発表したのち、2001年にヘルシンキで死去した[98][99]。
ウッランリンナ1番地のアトリエのトーベ
※注:このサイトは、トーベ・ヤンソンに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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