この追悼サイトは、 横山 大観(日本画の巨匠)さまのために作成されました。
享年89歳 、誕生日 1868年10月2日、命日 1958年2月26日
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横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年〈慶応4年 / 明治元年〉- 1958年〈昭和33年〉2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名は横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。旧姓は酒井(さかい)。幼名は秀松(ひでまつ)。(生年月日については記録により小異がある。詳細は後述。)
常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。
美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。欧米外遊での経験から、西洋画の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、大正時代における琳派ブームを牽引した。1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を、下村観山、木村武山等と共に再興した。
文化勲章を佩用した大観以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。 1935年(昭和10年)には帝国美術院の改革に伴い会員に選ばれたが、翌年、平生文相の改革試案に反対して日本芸術院メンバーらと会員を辞任[1]。 1937年(昭和12年)には、同年制定された文化勲章の第1回受章者の1人となった[2]。同年、帝国美術院が改組して発足した帝国芸術院会員となる。
戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。大観は1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。なお、大観の脳は現在もアルコール漬けにされた状態で、東京大学医学部に保管されている。
代表作[編集]
横山大観記念館 東京都台東区池之端1-4-24 03-3821-1017
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享年89歳 、誕生日 1868年10月2日、命日 1958年2月26日
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横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年〈慶応4年 / 明治元年〉- 1958年〈昭和33年〉2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名は横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。旧姓は酒井(さかい)。幼名は秀松(ひでまつ)。(生年月日については記録により小異がある。詳細は後述。)
常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。
美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。欧米外遊での経験から、西洋画の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、大正時代における琳派ブームを牽引した。1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を、下村観山、木村武山等と共に再興した。
文化勲章を佩用した大観以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。 1935年(昭和10年)には帝国美術院の改革に伴い会員に選ばれたが、翌年、平生文相の改革試案に反対して日本芸術院メンバーらと会員を辞任[1]。 1937年(昭和12年)には、同年制定された文化勲章の第1回受章者の1人となった[2]。同年、帝国美術院が改組して発足した帝国芸術院会員となる。
戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。大観は1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。なお、大観の脳は現在もアルコール漬けにされた状態で、東京大学医学部に保管されている。
代表作[編集]
- 『村童観猿翁』1893年 東京藝術大学蔵 東京美術学校卒業制作
- 『無我』1897年 東京国立博物館蔵
- 『屈原』1898年 厳島神社蔵
- 『迷児』1902年 個人蔵
- 『流燈』1909年 茨城県近代美術館蔵
- 『瀟湘八景[5]』1912年 東京国立博物館蔵 ※重要文化財
- 『柳蔭』1913年 東京国立博物館蔵 六曲一双屏風
- 『游刄有余地』(ゆうじんよちあり)1914年 東京国立博物館蔵 再興第1回院展
- 『群青富士』1917年頃 静岡県立美術館蔵
- 『生々流転』1923年 東京国立近代美術館蔵 ※重要文化財
- 『夜桜』1929年 大倉集古館蔵
- 『紅葉』1931年 足立美術館蔵 六曲一双屏風 再興第18回院展
- 『大楠公』1938年 湊川神社蔵
- 『日出処日本』1940年 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
- 『海に因む十題・山に因む十題』(連作20点、通称『海山十題』)1940年 各所分蔵
- 『或る日の太平洋』1952年 東京国立近代美術館蔵
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