この想いでサイトは、 志村 喬(名俳優)さまを承継するために作成されました。
享年76歳 、誕生日 1905年3月12日、命日 1982年2月11日
※ 志村さんへのメッセージ投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
1905年〈明治38年〉3月12日[1][4] - 1982年〈昭和57年〉2月11日[1])は、日本の俳優である。本名は島崎 捷爾(しまざき しょうじ)。身長163cm[5]。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物[6]。
兵庫県[1][4]朝来郡生野町[7][注釈 1]出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。生涯で出演した本数は443本に上る[8][信頼性要検証]。黒澤明監督作品には欠かせない俳優であった。
1934年(昭和9年)に新興キネマ京都撮影所に入社する。サイレント映画の『恋愛街一丁目』で映画デビューした。当初は台詞の無い役がほとんどだったが、1935年(昭和10年)に伊丹万作監督の第1回トーキー作品『忠次売出す』ではじめて台詞のある役を貰う。それ以降は段々といい役がつき始め、1936年(昭和11年)には第一映画で溝口健二監督の『浪華悲歌』にしたたかな刑事役で出演した。
また千恵蔵プロに移籍した伊丹万作に呼ばれた『赤西蠣太』で、現代のサラリーマンのような朴訥とした侍・角又鱈之進を演じてからは、芸達者な脇役として認知され、志村自身も映画開眼した作品と述べている。
同年、松田定次に請われてマキノトーキー製作所に移籍。同社は翌1937年(昭和12年)4月に解散し、辻吉朗の口添えで同年に日活京都撮影所に移籍。1942年(昭和17年)までに100本近い作品に出演した。特に嵐寛寿郎主演の『右門捕物帖』シリーズでのアバタの敬四郎役は、戦前の出演作品の中でも志村の当り役となった。またマキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では事実上の主役を演じて得意の歌を披露、その歌の上手さに驚いた共演者のディック・ミネに歌手デビューを勧められたという。
しかしこの頃、かつて新劇の舞台に立っていたことから特別高等警察に京都の太秦警察署(現・右京警察署)へ連行されて20日間ほど拘留、妻・政子と俳優仲間の月形龍之介が身元引受人となり釈放される。戦後、『わが青春に悔なし』に出演した際、毒いちごと呼ばれる特高を演じるが、これはその時の経験を生かしたという。
1943年、黒澤明の第1回監督作品『姿三四郎』で老柔術家・村井半助を演じて以来、黒澤作品には欠かせない存在として、21本の黒澤作品に出演した[出典 2][注釈 4]。
黒澤の最初期の作品では脇役を演じたが、1948年(昭和23年)の『醉いどれ天使』で主演に抜擢され、酔いどれ医者役を好演した。続いて1949年(昭和24年)には、『野良犬』で三船敏郎と組むベテラン刑事役を、『静かなる決闘』で三船の父親役を演じ、この二つの演技で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞する。
『醉いどれ天使』以降の作品では三船とのダブル主演の作品がほとんどだが、1952年(昭和27年)の『生きる』ではワンマン扱いで主演した。癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して好演、NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され[1]、黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となった。1954年(昭和29年)の『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像を打ち立て、『生きる』と並び生涯の代表作とした。
『生きものの記録』を最後に加齢のため主役級を降板。以後は脇役として黒澤作品への出演を続け、癖の強い悪役なども演じた。最後の黒澤映画は『影武者』である。1961年(昭和36年)には黒澤の代理としてベルリン映画祭に出席、多くの欧米の映画人から祝辞を述べられる。
黒澤作品以外では、『ゴジラ』の山根博士役をはじめとして、主に重厚な科学者役を演じ東宝の怪獣映画・特撮映画に多く出演した[1][2][4]。また、天知俊一監督がモデルとされる初老のプロ野球監督を演じた『男ありて』(1955年)は黒澤作品でも特撮映画でもない志村の代表作として挙げられる。本作は映画化が危ぶまれていると聞いた志村自身が、映画化実現まで原作を守ろうとするほどの熱の入れようであった。映画化したのちもテレビドラマ化され、志村は映画とテレビでこの主役を演じた。
晩年[編集]60代に入る頃から病気がちとなり、1974年(昭和49年)に肺気腫と診断されるが、それでも映画やテレビに出演を続け、入院中の同年には紫綬褒章を受章する。しかし1977年(昭和52年)ごろから病状は悪化、入退院を繰り返していた。
1980年(昭和55年)に勲四等旭日小綬章を受章。1981年(昭和56年)に映画『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』に出演。前年の撮影現場では病気を隠して役を演じきり、何とか無事に撮影を終えた[7]。
1982年(昭和57年)2月11日(木曜日)午後10時41分に慢性肺気腫による肺性心で、慶應義塾大学病院で死去(享年76歳)[9]。
遺品は、2010年(平成22年)に東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈された。また同年には兵庫県朝来市に「志村喬記念館」が設立された。
志村喬記念館 兵庫県朝来郡生野町口銀谷697-1 電話:079-670-5005
※注:このサイトは、志村喬に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年76歳 、誕生日 1905年3月12日、命日 1982年2月11日
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1905年〈明治38年〉3月12日[1][4] - 1982年〈昭和57年〉2月11日[1])は、日本の俳優である。本名は島崎 捷爾(しまざき しょうじ)。身長163cm[5]。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物[6]。
兵庫県[1][4]朝来郡生野町[7][注釈 1]出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。生涯で出演した本数は443本に上る[8][信頼性要検証]。黒澤明監督作品には欠かせない俳優であった。
1934年(昭和9年)に新興キネマ京都撮影所に入社する。サイレント映画の『恋愛街一丁目』で映画デビューした。当初は台詞の無い役がほとんどだったが、1935年(昭和10年)に伊丹万作監督の第1回トーキー作品『忠次売出す』ではじめて台詞のある役を貰う。それ以降は段々といい役がつき始め、1936年(昭和11年)には第一映画で溝口健二監督の『浪華悲歌』にしたたかな刑事役で出演した。
また千恵蔵プロに移籍した伊丹万作に呼ばれた『赤西蠣太』で、現代のサラリーマンのような朴訥とした侍・角又鱈之進を演じてからは、芸達者な脇役として認知され、志村自身も映画開眼した作品と述べている。
同年、松田定次に請われてマキノトーキー製作所に移籍。同社は翌1937年(昭和12年)4月に解散し、辻吉朗の口添えで同年に日活京都撮影所に移籍。1942年(昭和17年)までに100本近い作品に出演した。特に嵐寛寿郎主演の『右門捕物帖』シリーズでのアバタの敬四郎役は、戦前の出演作品の中でも志村の当り役となった。またマキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では事実上の主役を演じて得意の歌を披露、その歌の上手さに驚いた共演者のディック・ミネに歌手デビューを勧められたという。
しかしこの頃、かつて新劇の舞台に立っていたことから特別高等警察に京都の太秦警察署(現・右京警察署)へ連行されて20日間ほど拘留、妻・政子と俳優仲間の月形龍之介が身元引受人となり釈放される。戦後、『わが青春に悔なし』に出演した際、毒いちごと呼ばれる特高を演じるが、これはその時の経験を生かしたという。
1943年、黒澤明の第1回監督作品『姿三四郎』で老柔術家・村井半助を演じて以来、黒澤作品には欠かせない存在として、21本の黒澤作品に出演した[出典 2][注釈 4]。
黒澤の最初期の作品では脇役を演じたが、1948年(昭和23年)の『醉いどれ天使』で主演に抜擢され、酔いどれ医者役を好演した。続いて1949年(昭和24年)には、『野良犬』で三船敏郎と組むベテラン刑事役を、『静かなる決闘』で三船の父親役を演じ、この二つの演技で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞する。
『醉いどれ天使』以降の作品では三船とのダブル主演の作品がほとんどだが、1952年(昭和27年)の『生きる』ではワンマン扱いで主演した。癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して好演、NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され[1]、黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となった。1954年(昭和29年)の『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像を打ち立て、『生きる』と並び生涯の代表作とした。
『生きものの記録』を最後に加齢のため主役級を降板。以後は脇役として黒澤作品への出演を続け、癖の強い悪役なども演じた。最後の黒澤映画は『影武者』である。1961年(昭和36年)には黒澤の代理としてベルリン映画祭に出席、多くの欧米の映画人から祝辞を述べられる。
黒澤作品以外では、『ゴジラ』の山根博士役をはじめとして、主に重厚な科学者役を演じ東宝の怪獣映画・特撮映画に多く出演した[1][2][4]。また、天知俊一監督がモデルとされる初老のプロ野球監督を演じた『男ありて』(1955年)は黒澤作品でも特撮映画でもない志村の代表作として挙げられる。本作は映画化が危ぶまれていると聞いた志村自身が、映画化実現まで原作を守ろうとするほどの熱の入れようであった。映画化したのちもテレビドラマ化され、志村は映画とテレビでこの主役を演じた。
晩年[編集]60代に入る頃から病気がちとなり、1974年(昭和49年)に肺気腫と診断されるが、それでも映画やテレビに出演を続け、入院中の同年には紫綬褒章を受章する。しかし1977年(昭和52年)ごろから病状は悪化、入退院を繰り返していた。
1980年(昭和55年)に勲四等旭日小綬章を受章。1981年(昭和56年)に映画『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』に出演。前年の撮影現場では病気を隠して役を演じきり、何とか無事に撮影を終えた[7]。
1982年(昭和57年)2月11日(木曜日)午後10時41分に慢性肺気腫による肺性心で、慶應義塾大学病院で死去(享年76歳)[9]。
遺品は、2010年(平成22年)に東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈された。また同年には兵庫県朝来市に「志村喬記念館」が設立された。
志村喬記念館 兵庫県朝来郡生野町口銀谷697-1 電話:079-670-5005
※注:このサイトは、志村喬に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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