承継
この追悼サイトは、 永井 隆(医学博士、随筆家「長崎の鐘」などの著書がある)さまのために作成されました。

享年43歳 、誕生日 1908年2月3日、命日 1951年5月1日
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永井 隆(ながい たかし、1908年明治41年〉2月3日 - 1951年昭和25年〉5月1日)は、日本の医学博士、随筆家長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある。

長崎医科大学[編集]
1928年昭和3年)3月、松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学[10]。大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと当時としては大柄な体格[11][注 1]であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会で3等、西日本選手権制覇などに貢献[12]。この部活動で上海杭州にも遠征している[5]。また、同大学のアララギ支社に入って、歌会にも参加した[13]

高校以来唯物論者であったが、母が1931年(昭和6年)3月29日に脳溢血で急逝したのを機に霊魂があると信じるようになる[14]。その後、パスカルの『パンセ』を愛読し、カトリックに惹きつけられていった[15]浦上天主堂近くで牛の売買を営んでいたカトリックの森山家に下宿し、後に妻となる一人娘の緑(洗礼名:マリア)に出会った。森山家の先祖は隠れキリシタンで信者を指導し、教会暦を伝承する帳方であった

1932年(昭和7年)5月、大学の卒業式で総代として答辞を読むことになっていたが、卒業式の5日前のクラス会の帰りに雨に濡れてそのまま寝たために急性中耳炎にかかり[16]、命を落とすか障害者になるかという重症に陥った[17]。この間、カトリック信者の老婆が世話をしたが、永井がうわごとで「天主の御母聖マリア、われらのために祈りたまえ」というのを聞いて「きっと信者になる」と思ったという[17]

2ヶ月後にようやく健康を取り戻したが、右耳が不自由になったため、当初志望していた内科を諦めて物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻することとなった[18]。1932年(昭和7年)11月8日に助教授に就任した末次逸馬[19]の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組んだ。

1933年(昭和8年)2月1日、幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍[20]。この間、緑から送られた公教要理を読んでカトリックの教えに対する理解を深めた[21]

1934年(昭和9年)2月1日、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰。浦上天主堂の守山松三郎神父を訪れる。同年6月に洗礼を受け、洗礼名を日本二十六聖人の1人であるパウロ三木に因んでパウロとした[22]。同年8月に森山緑と結婚。洗礼後まもなく妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会英語版)(ヴィンセンシオ会)に入会[23]。無料診断・無料奉仕活動などを行い、このころに培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く

戦時中は結核X線検診に従事したが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、1945年(昭和20年)6月には被曝(散乱放射線被曝)による白血病と診断され、余命3年の宣告を受けた。この時白血球数10万8000、赤血球数300万(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)であり、発病は1940年(昭和15年)と推定された[28]

被爆および救護活動[編集]
1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことであった。

(永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これが原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった[29]
3日目の8月11日、学長代理として指揮をとっていた古屋野教授の許可を得て帰宅[30]。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬した[31]8月12日、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護にあたった[32]

9月10日ごろ、昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠じた。9月20日、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。マリア会の田川神父に告解をして終油の秘蹟を受けた。その後、出血が奇跡的に止まった。本人によると、本河内のルルドの水を飲み、「神父(かつて診察したことがあった[33])の取次ぎを願え」という声が聞こえたようなので、それに従ったという。

10月15日、三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆し、長崎医大に提出[34]。その後25年間所在が不明だったが、長崎放送の田川裕記者によって1970年(昭和45年)に発見された[35]

1946年(昭和21年)1月28日、長崎医科大学教授に就任したが、同年7月には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなった11月17日、長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行った。

如己堂[編集]
250px-%E5%A6%82%E5%B7%B1%E5%A0%82.JPG永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)1948年(昭和23年)には荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。3月、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行うための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付けた

10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。予告なしの不意な訪問であった[37]1949年(昭和24年)5月27日昭和天皇に拝謁。5月30日、浦上公民館で日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿の見舞を受けた[38]。当初は聖腕と特使が如己堂に来ることになっていたが、永井はそれを辞退して公民館まで出向いた[38]

8月1日、長崎市長から表彰を受ける。9月30日、長崎医科大学教授を退官。12月3日、長崎市名誉市民の称号を受ける。

1950年(昭和25年)5月14日、ローマ教皇特使として大司教フルステンベルクオランダ語版英語版)が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される11月29日、永井がルハンの聖母像を欲しがっているのを知ったアルゼンチン大統領夫人エヴァ・ペロンにより、長崎市に送られたルハンの聖母像が長崎に到着[39]。聖母像は大小2体で、大きいものはペロン夫人から長崎市、小さいものはブラジル在留日本人から永井個人に贈られた[40]

著作[編集]
再刊は、以下ののものなど複数ある。
  • 永井隆『生命の河―原子病の話』サンパウロ〈アルバ文庫〉、2008年。ISBN 4805648228
再刊は、以下のものなど複数ある。
  • 永井隆『いとし子よ』サンパウロ〈アルバ文庫〉、1995年。ISBN 4805604484
長崎市永井隆記念館-0
         永井隆記念館      長崎市上野町22-6  095-844-3496
更新日:2021年1月6日 ページID:011038

概要隣人愛による恒久平和を訴え、願い続けた永井隆博士。長崎市永井隆記念館は、博士の精神と偉業を永く記念し、その遺徳を顕彰、博士の願いを如己堂とともにいつまでも広く発信していくために設立されました。
※注:このサイトは、永井隆に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年9月15日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
長崎市に投下された原子爆弾に診察室にて被爆し重傷を負うも被爆者の救護活動に当たった。 カトリック教の実践者でした。    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年9月15日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
長崎市に投下された原子爆弾に診察室にて被爆し重傷を負うも被爆者の救護活動に当たった。 カトリック教の実践者でした。    合掌
軌跡

(生い立ち)

1908年(明治41年)2月3日島根県松江市にて、医師であった父・寛と母・ツネの長男(5人きょうだい)として誕生。お産の時、頭が大きくて産道に引っかかったままだったので、医者が胎児を切って外に出そうとしたが、母が強く反対して医者が帰ってから何時間かしてようやく生まれた[1]漢方医であった祖父文隆より1字を授かりと命名[2]。同年秋には父の医院開業のため、一家で飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)に移り住んだ[2]