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この追悼サイトは、 木戸 孝允(明治維新の三傑の一人・桂小五郎)さまのために作成されました。

享年43歳 、誕生日 1833年8月11日、命日 1877年5月26日
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木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年5月26日)は、日本幕末長州藩士勤王志士、明治時代初期の政治家[1]。号は松菊、竿鈴[2]。 明治維新元勲として、大久保利通西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる[3][4]幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。

概略[編集]
長州藩出身[5]。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる[2][6]1849年吉田松陰の門弟となり[2][4]1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び[2]、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ[6]

1858年安政の大獄以降、薩摩藩水戸藩越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり[7]高杉晋作久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となった[2]1862年以降には藩政の要職に就く[4]1864年池田屋事件及びその直後の禁門の変により、但馬出石で8か月の潜伏生活を余儀なくされた[2]。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜った[7]1866年には藩を代表して薩長同盟を締結している[2]

新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任[7]1868年(慶応4年=明治元年)に五箇条の御誓文の起草・監修にあたり明治維新の基本方針を定めた他、版籍奉還廃藩置県など、封建的諸制度を解体して近代社会(市民社会・資本主義社会)と中央集権国家確立をめざす基礎作業に主導的役割を果たした[7][6]1871年には岩倉使節団に参加し、諸国の憲法を研究した[7]1873年に帰国したのちはかねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では資本主義の弊害に対する修正・反対や、国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進した。また内政優先の立場から岩倉具視大久保利通らとともに西郷隆盛征韓論に反対し、西郷は下野した[8]

憲法制定を建言していたが、大久保利通に容れられず、富国強兵政策に邁進する大久保主導政権に批判的になり、政府内において啓蒙官僚として行動[7]1874年には台湾出兵に反対して参議を辞した[7]。翌年の大阪会議においては将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保批判をすることが多かった[2]。地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、復職後は健康が優れず、西南戦争中の1877年(明治10年)5月26日に出張中の京都において病死した。西南戦争を憂い「西郷よ。いいかげんにしないか」と言い残したという[2]

その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。

剣豪桂小五郎[編集]
弘化3年(1846年)、長州藩の剣術師範家のひとつの内藤作兵衛柳生新陰流)の道場に入門している。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降は剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められる。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎の江戸への帰途に随行し、財満新三郎・佐久間卯吉ら5名の藩費留学生たちと他1名の私費留学生とともに私費で江戸に上る。

江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受ける。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となった。大柄な小五郎が、得意の上段竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられる。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩渡辺昇とともに、練兵館の双璧と称えられた

幕府講武所の総裁・男谷信友直心影流)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間練兵館の塾頭を務め、剣豪としての名を天下に轟かせる。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。また、近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたといわれる[9]

安政4年(1857年)3月、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬と対戦し、2対3で小五郎が勝利した史料が、2017年10月30日に発見された[10]

但馬出石潜伏[編集]
150px-Katsura123.jpg禁門の変後潜伏した、但馬出石の邸宅跡北緯35.463670度分秒 東経134.873683度分秒但馬出石出身で対馬藩出入りの商人広戸甚助の協力で、小五郎は出石に逃げのびた。出石では広戸家の親戚宅や檀那寺である昌念寺[27]養父市の西念寺[28]などを転々とし、さらには当時松本屋という屋号だった城崎の湯宿に年をまたいで2度潜伏している。

昌念寺に潜伏していたときに知り合った出石藩士の堀田反爾について、木戸は明治3年7月の日記に「八日朝、大久保参議来談、堀田反爾来る。但州出石藩の人、余七年前、京都戦争後、しばらく出石に潜伏す。この時最善寺に相会す。しかるといへどもその時余の長州人たるを知らざるなり」と述べている。出石での滞在中は、甚助の妹にあたる広戸すみ子が身辺の世話をし、のちに「何時も揚げ豆腐の焼いたのが、御好みであつた」と食物の嗜好について述懐している[29]

小五郎は、甚助を長州藩への使いに出し、大村益次郎に居場所を知らせた。小五郎の居場所は、大村のほか伊藤博文野村靖のみが知る極秘事項とされた。高杉晋作は大村宛に「桂小の居所は、丹波にてござ候や、但馬にてござ候や、また但馬なれば何村何兵衛の所にまかりあり候や」 と手紙を書いて小五郎の居場所を尋ねている。大村や野村は、小五郎に手紙を出し、藩の内外の状況を知らせるとともに、すぐに帰藩するよう伝えている。高杉は、大村宛の手紙を認めた翌月に、下関の豪商入江和作に宛てて「そのうちちょっと但馬城崎湯に罷り越したく存じおり候」と具体的な地名を交えて伝えており、小五郎の居場所を知る人物より情報を得ていた可能性がある[30]

関連作品[編集]
小説・ドラマ・映画・漫画など。

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   木戸孝允旧宅城下町・江戸屋横町にある旧宅。20歳までこの家で暮らしました。

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軌跡

(少年時代)

天保4年6月26日1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に長州藩藩医である和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くという。母はその後妻であった。前妻が生んだ異母姉が2人いる。実子としては長男であるが、長姉に婿養子文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、小五郎は次男として扱われた。

天保11年(1840年)、7歳で向かいに住んでいた藩士桂孝古末期養子となり、藩の大組士に列して禄(90石)を得た。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父母・次姉と共に育つ。