承継
軌跡

(生い立ち)

1930年、姫路市にて会社員の父・憲一の第一子として誕生[注釈 1]。当時としては裕福な家庭に育ち、成績は優秀だった。

広島陸軍幼年学校在籍時に終戦を迎え、その後、兵庫県立姫路西高等学校を卒業。

1949年関西学院大学文学部に入学するが、翌年に病気のため中退。入院中にラジオ作家の堀江史朗の弟と知り合い、退院後、芸能界入りのため堀江を頼って上京した。

(俳優への道のり)

1957年に劇団「」へ入団。当初は「平凡な顔立ち」という理由で、外国ドラマ・アニメなどの声優としての活動をしていたが、1966年に『事件記者』に急逝した清村耕次の後任としてレギュラー出演し、世間に広く知られた。続いて『横堀川』での主人公を慕い協力する寄席芸人・ガマ口役でその演技力を認められ、第4回ギャラクシー賞を受賞した。

映画ではお調子者の中間管理職や中小企業の社長役を演じた。初の主演映画は1970年の『喜劇 頑張れ!日本男児』。映画では、小狡い小悪党の役も巧くこなし、単なる善良な父親だけではない幅広い役柄を演じた。

(エピソード)

  • 桂米朝は小学校の先輩で、遠足の時に案内で手をつないでもらった。
  • キダ・タローは大学時代の同級生であり在学中に同じタンゴバンドに所属する音楽仲間であった。藤岡の担当はバイオリン、キダ・タローの担当はアコーディオンだった[3]。その後、30歳近くになった時に初めてNETテレビ(現在のテレビ朝日)『モーニングショー』の「ご対面」コーナーで共演することになる時まで、キダは俳優・藤岡琢也が同級生の藤岡茂とは知らなかったという[3][4]。なおキダによれば、この番組の収録または放送前において二人は事前にメイク室で顔を合わせており、藤岡から「うまいことやってや」とも言われていた。だが番組はあくまで対面の瞬間まで藤岡はキダが来るとは知らない、と言う設定で進められており、藤岡はこの大きさはアコーディオンかな、ひょっとして木田ちゃん?・・・などと、役者っぷりを発揮したという。