承継
軌跡

謝辞(人生史)

 この人生史は、見返りを求めずに私に色々なものを与えてくれた人たち(Giver)にに感謝を込めて捧げます。若いときに生きることに絶望したときに助けてくれた宗教家、会社で何のメリットもないのに助けてくれた先輩、会社経営で倒産しそうになったとき助けてくれた経営者。。。いつも私を信じていて、人生でやりたいことは何でもできると励ましてくれた両親の言葉。ありがとうという感謝しかありません。

  人生で学んだことを、大切な子供とその孫と いつか時を越え共有したいので人生の物語を書くことにしました。私たち家族が誰であるか、どこから来たのかについても伝えておきたいと思います。 私の話では、人生がどんなものなのかを全てを知るには完璧ではありませんが、孫たちが自分自身で考え、素晴らしい人生を送れることを願い、私達家族について知ることが役立つことを願っています。

小千谷市が故郷

  • 生家は、新潟県小千谷市船岡町で、父と母が電気工事店を営んでいました。 
  • 藤沢という苗字は、この地域には少ないので全て親戚でした。 
  • 小千谷幼稚園→小千谷小学校→小千谷中学校→小千谷高校 とすべて地元の名門(?)に行きました。
故郷の雪深い新潟県小千谷は、心のふるさとで大切な場所です。

一族の歴史

  • 次男の祖祖父が家を出て、蚕養殖の技術指導員として新潟県に派遣され小千谷市に定住しました。 よって、藤沢という苗字は、この地域には少ないので全て親戚でした。
  • 祖父母が東北電力を定年後にスタートした会社が実家です。本家は、長野県で寺住職だったようですが

幼少期

1964年の東京オリンピックの年に長男として生まれました。その年は新潟地震M7.4もありイベントが多い年だったようです。
名前は、同居していたおじさんが弁護士の同級性の名前にちなんで命名しました。結構気に入っています!
 
よく泣く子供だったと母は言います。長男だったので祖母・祖父がいつも良く面倒を見てくれたのを覚えています。中流家庭で、食事・掃除・洗濯・着替えなど、全て母・祖母が高校卒業までやってくれていたので、一人暮らしをしたら何もできない自分だったことが分かりました。⋆つまり過保護です。


学生時代(小学校・中学校・高校)

 両親が仕事で忙しかったため、自分の意思でなんでも好きなスポーツや、勉強科目を選んでやりました。勉強もスポーツもクラスのトップ10%くらいで、それなりに出来たのでいい気になり、小学生ー中学生の頃は、ガキ大将-いじめっ子になりました。
 今再会出来るとしたら、その人たちに心から謝りたいです。その頃の私のあだ名、女子生徒から”バカ殿” で言い当てていると思います。 言い訳ですが、中学生の時に悪い友達の影響です。。。。。若いときは友達が大きく影響してると思います。


小さいときの家族イベント

小さいことは、よく家族で登山にいきました。 一年一回の行事で、いつも行く前は嫌でした。でも、頂上へからの眺めはいつも素晴らしく感動して帰りました。今考えてみると、苦しいことを耐えると新しい景色が見えることを父は知っていて教えてくれたのでしょう。
 折角の休みの日に、朝3時AMくらいには起こされて登山に行くので嫌いでした。早朝登山道までのバスの、空いていた席に腰けると父に大声で起こられたのを今でも思い出します。”高齢者に席を譲れ”と。。。 何時までも覚えています。今では厳格だった父に感謝しています。

大学時代

両親は、高校卒業後に”やりたいこと、好きなことをしなさい”と言ってくれました。何も考えていなかったので、とりあえず数学が得意だったので、理工科系の大学に行くことにしました。 大学に行きたいというよりは、東京を体験してみたいという気持ちが強かったです。
 大学に行きたいというよりは、東京を体験してみたいという気持ちが強かったです。

 その後、両親のおかげで、アメリカの大学院に4年近くも留学させてもらいました。 大学生活は色々な考え方の人がいて勉強になりました。特に宗教に出会い、大学時代に宗教の重要さを体験できたのは私の一生で何よりの宝です。



就職

アメリカの大学院を卒業する頃には、就職サラリーマンではなく、起業したいという気持でした。しかし、何で起業してよいかわからなかったので、とりあえず会社勤めを数年間することにした。 
 IBMという会社に入社し、3年後には退社してアメリカに起業のため移住。しかし、起業のお金も無くなり、米国日立製作所でお世話になりました。

 実力のない私を育ててくれた現地の日本人の方々には感謝。居心地が良くて日立製作所では3年のつもりが10年サラリーマンをしました。⋆その間、結婚・子供が生まれ平和な日々を過ごすことができて感謝です!


結婚

お見合いで結婚。仲人さんに2回目のデートした後に、3回目デートするのであれば結婚と言われ了承した。 付き合った時間は20時間くらいだったかもしれないが、運命の出会いであると感じた。 結婚後2年くらいは、お互い知らない同士なので、慣れるまで大変だった。今思うと何か似ている2人でだったから結婚できたのだと思う。
 妻は嫌だろうが、来世一緒でも私はよい。

子供

子供は3人です。私も3人兄弟なので同じです。自分が男だからかもしれませんが、子供は男の方が理解しやすいです。人のために生きることを教えてくれるだけでなく、私がいなくなっても、想いを託せる人がいると思うと、やる気が出てきます。 

 だだ、事業を始めたため、家庭のことが出来ずに、子育ては妻にほとんど任せで苦労を掛けました。 子供には、沢山の楽しい人生の思い出をもらい感謝。


職業とキャリア

15年間のサラリーマン生活を終えて、アメリカ・ロサンジェルスで起業しました。USCという大学のMBA起業家コースで準備万端でした。 
 しかし現実は、1)レンタルオフィス業⇒廃業 2)イタリアン・レストラン経営 ⇒撤退し、準備資金が4年で全て無くなりました。住んでいた家を売却し、生活保護を受けながら技術系の仕事が好きだったので、日本企業のIT製品販売代理店会社を立ち上げました。5年くらいでこの会社が軌道に乗り、アメリカ製セキュリテイソフト製品で日本進出しました。

 この会社では従業人に恵まれ50名程度の会社となり、日本の上場会社に売却することができました。  自分の実力ではなく、従業員やサポートしてくれた人に恵まれたのだと思います。


仕事の息抜きに趣味に走る

妻にいつも叱られた趣味でした。(ごめんなさい)
私の趣味(クラシックカーバイク収集・琺瑯看板集め)ではお金の面でも、精神的にも迷惑かけました。。。。好きなことをやらせてもらえた妻には感謝してもしきれません。

リタイアメント(定年退職後)

54歳でリタイアしました。理由は妻がステージ3のガンになり、一緒に居たかったからです。同時に、日本の一部上場のアメリカ現地法人の社長兼、執行役員はつらいものがありました。

 人間は死を見つめると、”時間の大切さ” ”自分が何を人生でやらなければいけないのか” ”社会貢献”などいろいろな考えが浮かび、夢が広がります。

 私の場合、死ぬ前に何か自分が出来ることで社会貢献したいと思うようになり(微力ですが...)、再度今までやりたかった生命に関係するビジネスをスタートしました。この ”思い出を未来につなげる”というビジネスです。。。。自分のいのちある限り頑張ろうとおもいます。


好きな歌 (自作ビデオ)

田舎生まれの私は、ブルースプリングデーンのBruce Springsteen - dancing in the dark  が好きでした。 雪深い小千谷市が、幼少のころは嫌いで、いつかは自分も世の中も変えたいと思った自分と重なった部分が有ったのかもしれません。 都会東京も、住んで仕事をしてみると同じで、ルーティンから生き方を変えたいとおもいました。
この感覚が、自分の宗教観や海外移住に繋がったと考えます。

好きなこと

 体を動かすことと、技術オタク的なものが好きです。(そういえば亡父も技術オタクでした) 
 若いときは、陸上・ゴルフ・自転車などのスポーツをしてきましたが膝を悪くして今は散歩と自転車です。 
 技術は、旧車修理・琺瑯看板収集・アマチュア無線・電子工作・仮想通貨研究などです。⋆年なので記憶力が悪く、子供の方がなんでも上です。 でも、やっていて子供頃に戻りワクワクするものが好きです。

人生で学んだこと

  アメリカの大学時代に、無声映画で波際に打ち上げられた数万のヒトデを1匹づつ海に返している人が ”なぜ” との質問に ”この1匹が助かるから” と答えました。 自分の人生でできることは、小さいことですが、それでもいいと思います。

 私の夢は、【永遠に想いでをつなぐものを作ること】 死んでもだれもが、ここに生きたことを伝えらえられること。来世になるかもしれませんが、いのち続くまで頑張ってみます。 


伝えること(ありがとう)

この時に、この場所で生きることができたこと。沢山の人に支えられ 生きたことに心から感謝します。
 永遠の生命を子供の頃は夢見ていたけど、今では次世代につなぐ生命に意味があることに感謝します。
 
もう一度、みんなに会いたいけど。。。 さよなら。 Cheers!