この想いでサイトは、 星野 哲郎(作詞家)さまを永遠に承継するために作成されました。
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本名:星野 哲郎(ほしの てつろう)
戒名:宝徳院航謡暁哲居士
墓地:
日本の作詞家であり、戦後歌謡界を代表する作詞家の一人。各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎」が正しい表記。「有田めぐむ」「阿里あさみ」など、数多くのペンネームが存在する[2]。
山口県大島郡森野村(後に東和町→現・周防大島町)出身で、東京都小金井市に在住していた。 妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。
1925年(大正14年)9月30日 - 山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐に生まれる。森野村立開導小学校[注 2]、山口県立安下庄中学校(現・山口県立周防大島高等学校安下庄校舎)を経て、1946年(昭和21年)、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。
闘病期間中に作詞を学び、1952年(昭和27年)に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」[注 3]が入選し、選者の石本美由起の勧めで、翌1953年(昭和28年)に作詞家デビューした[3][4]。石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家として活躍することになる。
1958年(昭和33年)、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ[5]。船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹で名作を数多く世に輩出するゴールデン・コンビとなる。1964年(昭和39年)にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983年(昭和58年)にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び[6]、数々のヒット作を生み出した。
主な作品
〇 叱らないで 〇 男はつらいよ 〇 夜明けの街
〇 女の港 〇 瀬戸の恋歌 〇 なみだ船
〇 兄弟仁義 〇 函館の女 〇 風雪ながれ旅
〇 北の大地 〇 昔の名前で出ています 〇 雪椿
〇 思いでさん今日は 〇 いつもふたりは 〇 袴をはいた渡り鳥
〇 出世坂 〇 度胸船 〇 大器晩成
〇 涙を抱いた渡り鳥 〇 いっぽんどっこの唄 〇三百六十五歩のマーチ
〇 真実一路のマーチ 〇 黄色いサクランボ 〇 高知の夜
〇 長崎の夜はむらさき 〇 函館の雨はリラ色 〇 たそがれ港町
〇 あのひとの雪国 〇 月あかり 〇 兄弟船
〇 戎橋ブルース 〇 城ケ崎ブルース 〇 みだれ髪
〇 アンコ椿は恋の花 〇 夫婦坂 〇 恋の銀座
〇 たそがれの銀座 〇 純愛のブルース 〇 春うらら
その他、多数あり
著書[編集]
星野哲郎記念館 山口県大島郡周防大島町平野417-11
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本名:星野 哲郎(ほしの てつろう)
戒名:宝徳院航謡暁哲居士
墓地:
日本の作詞家であり、戦後歌謡界を代表する作詞家の一人。各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎」が正しい表記。「有田めぐむ」「阿里あさみ」など、数多くのペンネームが存在する[2]。
山口県大島郡森野村(後に東和町→現・周防大島町)出身で、東京都小金井市に在住していた。 妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。
1925年(大正14年)9月30日 - 山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐に生まれる。森野村立開導小学校[注 2]、山口県立安下庄中学校(現・山口県立周防大島高等学校安下庄校舎)を経て、1946年(昭和21年)、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。
闘病期間中に作詞を学び、1952年(昭和27年)に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」[注 3]が入選し、選者の石本美由起の勧めで、翌1953年(昭和28年)に作詞家デビューした[3][4]。石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家として活躍することになる。
1958年(昭和33年)、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ[5]。船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹で名作を数多く世に輩出するゴールデン・コンビとなる。1964年(昭和39年)にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983年(昭和58年)にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び[6]、数々のヒット作を生み出した。
主な作品
〇 叱らないで 〇 男はつらいよ 〇 夜明けの街
〇 女の港 〇 瀬戸の恋歌 〇 なみだ船
〇 兄弟仁義 〇 函館の女 〇 風雪ながれ旅
〇 北の大地 〇 昔の名前で出ています 〇 雪椿
〇 思いでさん今日は 〇 いつもふたりは 〇 袴をはいた渡り鳥
〇 出世坂 〇 度胸船 〇 大器晩成
〇 涙を抱いた渡り鳥 〇 いっぽんどっこの唄 〇三百六十五歩のマーチ
〇 真実一路のマーチ 〇 黄色いサクランボ 〇 高知の夜
〇 長崎の夜はむらさき 〇 函館の雨はリラ色 〇 たそがれ港町
〇 あのひとの雪国 〇 月あかり 〇 兄弟船
〇 戎橋ブルース 〇 城ケ崎ブルース 〇 みだれ髪
〇 アンコ椿は恋の花 〇 夫婦坂 〇 恋の銀座
〇 たそがれの銀座 〇 純愛のブルース 〇 春うらら
その他、多数あり
著書[編集]
- 『歌、いとしきものよ』集英社, 1984 岩波現代文庫、2012
- 『紙の舟 わが詞わが友わが人生』マガジンハウス, 1990
- 『艶歌演歌塩歌 星野哲郎作品集』編著. リー・リックス・エージェンシー「紙の舟」, 1990
- 『艶歌演歌援歌 星野哲郎作品集』編著. 紙の舟, 2001
- 『妻への詫び状』小学館, 2003
星野哲郎記念館 山口県大島郡周防大島町平野417-11
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