生い立ち
- 1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村(現在の日置市東市来町美山)で生まれた]。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった。
- 薩摩藩は苗代川の住民に対して、朝鮮の風俗を保持すること、日本名の使用禁止、他所との通婚の規制を命じる一方、他所の人間からの「乱暴狼藉」に対しては厳罰を課すなど、保護・統制が一体化した政策を取った。
- 苗代川の住民の多くは「郷士」よりも下の地位に位置づけられたが、前記の保護ともあわせて手厚く遇された。しかし、明治維新後の壬申戸籍では「平民」とされ、1880年には苗代川の男子364人の連名で「士籍編入之願」が鹿児島県庁に提出された。この364人の中には、祖父・朴伊駒も名を連ねていた。しかし、士族への編入は1885年の最後の請願まで却下され続けた。
- その翌年にあたる1886年、朴家は東郷を名乗る士族の家禄を購入してその戸籍に入り、9月6日付で当時満4歳まであと3ヶ月だった茂徳は「東郷茂徳」となった。なお、鹿児島では「東郷」姓はありふれたもので、朴家が入籍した東郷家は東郷平八郎とは無関係である。
- 茂徳の父・壽勝は陶工ではなかったものの、雇った陶工の作った作品を横浜の外国人など県外に向けて販売し、財を築いたという。
功績
- 30歳で外交官となり、中国、欧米で勤務後に欧米局長、欧亜局長を経て駐独大使、翌年駐ソ大使を歴任 していく。
- 1919年(37歳)から3年間、対独使節団の一員としてベルリンに赴任し、ユダヤ系ドイツ人のエディ・ド・ラロンド(建築家ラランデ未亡 人)と出会い、恋仲となる。のちに結婚に反対する両親を説得して帝国ホテルで挙式した。
- 1937年(55歳)から翌年まで駐ドイツ大使となったが、東郷はナチスを嫌悪し、ナチスと手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリ 駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免される。 1941年(59歳) 10月、東条内閣の外務大臣として対米交渉にあたる。日米開戦に反対する東郷は、行き詰まった交渉を打開して開戦回避の道を探ろうとしたが果たせなかった。開戦に先立ち、対米宣戦布告文を米国に手交(しゅこう※手渡すこと)するよう日本大使館に訓電したが、現地での暗号解読が遅れ、 真珠湾攻撃には間に合わなかった。
- 開戦後は早期講和への道を探る。 1942年(60歳) 9月1日、占領地域の統治を業務とした大東亜省の設置に反対し、東条首相と対立して大臣辞職。 外務省があるのに 大東亜省を設置すると、日本がアジア諸国を植民地のように扱っていると見られることを危惧した。同日、勅選されて貴族院議員となる。 1944年(62歳) 7月のサイパン島陥落で本土空襲が避けられなくなり、日本の敗戦が不可避と判断、負け方を研究するため世界の 敗戦史を調査。
- 1945年(63歳) 4月、鈴木貫太郎首相から「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かして ほしい」と言われて入閣し、再び外務大臣になる。 東郷は軍部の本土決戦論に対してポツダム宣言受諾を訴えるなど終戦工作に尽力す る。欧州ではドイツ敗戦が目前に迫り、ソ連が攻めてくる可能性もあり、事態は緊迫していた。5月にドイツが敗北すると、翌月に「和平 交渉をソ連に求める」という国家方針が天皇の意思により決定された。 だが、ソ連側の動きは鈍く、7月26日にポツダム宣言が突きつ けられた。 東郷は内容が順当なものであるとして昭和天皇に宣言の受諾を勧めたが、 阿南陸相は猛反対し、ポツダム宣言の全面拒否を 主張した。 結局、 ポツダム宣言に対しては「しばらく様子をみる」ということになったが、7月28日朝刊は「笑止」 (読売新聞) 「黙殺 朝 日新聞) と書き立てた。 阿南陸相がポツダム宣言非難声明を出せと譲らないため、 米内海相が妥協案として「宣言を無視する」という声 明を出すことを提案。 鈴木首相は会見で「ただ黙殺するのみ」としたが、連合国は「拒否」と受け取った。 8月6日に原爆が広島に投下さ れ、8月8日にソ連は対日参戦に踏み切った。
- 8月9日午前、最高戦争指導会議が開催され、 東郷は 「皇室の安泰」 のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張、米内海相と平 沼騏一郎枢密院議長がこれに賛成した。 しかし阿南陸相は条件を追加し、武装解除は日本側の手でおこなう、 東京を占領対象から外す、 戦犯は日本人の手で処罰する、と唱え、これに梅津陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長が同意して議論は平行線になった。 阿南は 「戦局は五分五分である」 「本土決戦は勝算がある」と主張、 東郷は 「完全に負けている」「仮に上陸部隊の第一波を撃破できたとしても、 我が方はそこで戦力が尽きる。 敵側は続いて第二波の上陸作戦を敢行する。 それ以降も我が方が勝てるという保証はまったくない」と 反論した。 この会議の途中で、 長崎にも原爆が落ちた。 会議は深夜まで続き、 鈴木首相は結論を天皇の聖断にゆだねる旨を述べ、 天皇 は「外務大臣の案に同意である」と発言、 ポツダム宣言の受諾が決まった。 だが、降伏後の天皇の扱い曖昧であったため、阿南陸相 ・梅津 参謀総長は連合国との交渉が必要と訴え始め、東郷と米内海相は「再照会は交渉の決裂を意味する」とし再び議論が紛糾した。 14 日、 昭和天皇が「前と同じく、 私の意見は外務大臣に賛成である」という二度目の「聖断」が出され、陸軍強硬派もようやく折れ、ポツダム宣 言受諾となった。
- 敗戦後、 東郷は東久邇宮内閣に外相として留任するよう要請されたが、 「戦犯に問われれば、 新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、 東郷は平和主義者で軍部と常に対立していたが、開戦時の外相という責任を問われ、1946年5月1日に巣鴨拘置所にA級戦犯とし妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁した。
- 1948年 (66歳) 11月4日、 裁判所は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、 外交交渉の面で戦争開始を助 けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、 禁錮 20年の判決を受けた。 東郷 「私には罪 がある。戦争を防げなかった罪だ。 しかし東京裁判であげつらった罪は何も犯してはいない。戦争が罪と言うならイギリスのインド併合、アメリカのハワイ併合の罪も裁け」。
- 1950年、後世の文明史家のために、自己の外交官生活の回想録の執筆を獄中で行い、 『時代の一面』と命名し、これが遺書となった。
- 原稿がほぼ完成したところで心臓病が悪化、7月23日、服役中に治療先のアメリカ陸軍病院で病死した。享年67。
※東郷は国際社会には法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい日本国憲法第9条がその流れに結びつく第一歩になると期待していた。