この追悼サイトは、 黒澤 酉蔵(日本酪農の父・北海道開発の父と呼ばれる)さまのために作成されました。
享年96歳 、誕生日 1885年3月28日、命日 1982年2月6日
※ 黒澤さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印メグミルク)、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)の設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、"日本酪農の父"や"北海道開発の父"と呼ばれる[1][2]。
生涯[編集]誕生、上京[編集]生地跡に建つ酉和館脇の「黒澤酉蔵先生生誕之地」碑1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現在の常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟の長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父の飲酒癖がもとで負債までつくり家計は常に苦しかった。そんな家を母は、巡業などもして苦労して支えた。母は「お前は大酒飲みにならないように」と息子を戒め、黒澤はそれを守り生涯禁酒を通した[3]。
1895年(明治28年)に修学年限が4年制の世矢村尋常小学校を卒業後[4]、磯野壇という老人が開く水戸学の影響の強い近くの漢学塾に1年ほど通い、後、近くの村の涯水義塾という漢学の塾に通う[5]。
更なる勉学を積みたく、父母に東京行きを願い出て、父からは貧しさを理由に反対されたが、母に「どんな苦労や困難にも耐え抜く覚悟があるなら行ってよい」と送り出された。1899年(明治32年)6月に14歳で東京へ行き、神田中猿楽町の上野清が校長の東京数学院(後の私立東京高等学校)で給仕生として生活を始める。が、1年ほど後、東京数学院の教師をしていた松本小七郎の誘いで彼の書生となり、神田の正則英語学校(後の正則学園高等学校)に通うようになる[6]。
鉱毒事件救済活動へ参加[編集]1901年(明治34年)12月、田中正造が足尾鉱毒事件について直訴したことを新聞報道で知り衝撃を受けた黒澤は、田中が宿にしていた東京市芝口二丁目(後の東京都港区新橋)にある「越中屋」という三等旅館を訪れ、田中と面会する。突然の来訪にもかかわらず快く自分を受け入れ、事件の事を丁寧に説く田中の人柄に感銘し、田中と一緒に農民救済に関わることを決意した[8]。
まずは田中の勧めで内村鑑三率いる足尾銅山鉱毒災害地学生視察団に加わり現地を見て、更に独自での現地視察も行った。視察後「学生鉱毒救済会」が東京に作られると、これに参加し、街頭演説や募金活動を行った。だが、政府の圧力で学生運動が下火になるのを目のあたりにした黒澤は、被害地の青年達自らが立ち上がるべきではないかと考え、農民が自主的に団結し行動する「青年行動隊」の組織化を目論んだ。この実現のため、学業を放り出し被害地を回り、集会・演説会、中央の名士を招いての懇親会の開催などをして同士集めに奔走した[9]。このような果敢な行動から黒澤は"小田中"とも呼ばれるようになった[10]。
渡道し酪農業と北海道開発に尽くす[編集]1905年(明治38年)夏、北海道に渡った黒澤は、北海タイムスの阿部宇之八に白石村(後、札幌市白石区)で酪農を営む宇都宮仙太郎を紹介され彼に逢いに行く。 出会った宇都宮から、牛飼いには三つの徳(得)がある、すなわち「役人に頭をさげなくてもよい」、「動物が相手だから嘘をつかなくてもよい」、「牛乳は日本人の体位を向上させ健康にする」と説かれた黒澤はその話を気に入り、宇都宮の牧場の牧夫となることを即決した。酪農の作業は辛いものがあったが、自作の道具で乳搾りの練習をしたりして熱心に取り組んだ[17]。
1906年(明治39年)12月に徴兵され札幌市の歩兵連隊に入る。兵役を終えた後の1909年(明治42年)4月、宇都宮から独立する。山鼻村東屯田(後の札幌市中央区南10条西8丁目あたり)でエアシャー種1頭でのスタートであった。朝3時に起き牛の世話、搾乳をし、5時には牛乳を配達し、帰っては又牛の世話をするという作業を1人で行い、睡眠時間が3時間か4時間という奮闘の日々を送った。そのかいあって5年後には飼育する乳牛が10数頭にまでになる酪農家に成長していた[18][19]。
この頃の私生活においては、1909年(明治42年)1月に日本メソジスト札幌教会(後の日本キリスト教団札幌教会)で杉原成義牧師より受洗し[20]、また1915年(大正4年)に結婚している[21]。夫婦の間に生まれた子供のうち、長男の力太郎は酪農学園大学教授、酪農学園学園長等を勤めている[22][23]。
1923年(大正12年)の関東大震災直後に、アメリカから練乳が援助物資として大量に届けられ、また、乳製品の関税も撤廃され輸入品が増えると、道内の練乳会社による国産牛乳の買い叩きや受入制限がおき、国内の酪農家は苦難に陥った。この危機に際し、黒澤は宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに酪農家自身による乳製品製造機関の創設を図り、1925年(大正14年)5月17日、「有限責任北海道製酪販売組合」を設立した。この組合で黒澤は専務理事になっている。組合は1926年(大正15年)3月に組織改編し、名称を「北海道製酪販売組合連合会(酪連)」に改めた。その後、酪連は戦時中の1940年(昭和15年)に「北海道興農公社」[24]、戦後の1947年(昭和22年)に「北海道酪農協同株式会社(北酪社)」と変遷し、1950年(昭和25年)にブランド名として名乗った「雪印」を社名とした「雪印乳業株式会社」となっている[25][26]。
酪連において黒澤は販路拡充、品質向上に取組み、初代会長の宇都宮が急病により会長を辞任すると、1935年(昭和10年)5月に会長に就任し、後に大企業となる雪印乳業の基盤を築いた[27][26]。
黒澤はまた北海道開発の方面でも活躍しており、戦前においては、デンマーク式農業の紹介や、北海道議会憲政会の拓殖計画副委員長に就任し北海道第二期拓殖計画の策定で主導的な役割を果たす、などの事を成した。戦後は1952年(昭和27年)6月に北海道開発庁の北海道開発審議会委員に任命され、1954年(昭和29年)9月には同会会長に就任し以後8期16年会長職を務め、北海道開発計画の策定等で指導的役割を成した[31]。
その他の北海道産業界での経歴としては、北海タイムスにおいて1960年(昭和35年)12月に社長に、1966年(昭和41年)5月に会長に就任、札幌テレビにおいて、1957年(昭和32年)10月に設立発起人の一人となり設立後取締役に就任などがある[31]。
黒澤はこの酪農義塾で自身の主張する『農民道五則』で塾生達の農業人としての精神育成に努めた。『農民道五則』とは以下である[40]。
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享年96歳 、誕生日 1885年3月28日、命日 1982年2月6日
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黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印メグミルク)、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)の設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、"日本酪農の父"や"北海道開発の父"と呼ばれる[1][2]。
生涯[編集]誕生、上京[編集]生地跡に建つ酉和館脇の「黒澤酉蔵先生生誕之地」碑1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現在の常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟の長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父の飲酒癖がもとで負債までつくり家計は常に苦しかった。そんな家を母は、巡業などもして苦労して支えた。母は「お前は大酒飲みにならないように」と息子を戒め、黒澤はそれを守り生涯禁酒を通した[3]。
1895年(明治28年)に修学年限が4年制の世矢村尋常小学校を卒業後[4]、磯野壇という老人が開く水戸学の影響の強い近くの漢学塾に1年ほど通い、後、近くの村の涯水義塾という漢学の塾に通う[5]。
更なる勉学を積みたく、父母に東京行きを願い出て、父からは貧しさを理由に反対されたが、母に「どんな苦労や困難にも耐え抜く覚悟があるなら行ってよい」と送り出された。1899年(明治32年)6月に14歳で東京へ行き、神田中猿楽町の上野清が校長の東京数学院(後の私立東京高等学校)で給仕生として生活を始める。が、1年ほど後、東京数学院の教師をしていた松本小七郎の誘いで彼の書生となり、神田の正則英語学校(後の正則学園高等学校)に通うようになる[6]。
鉱毒事件救済活動へ参加[編集]1901年(明治34年)12月、田中正造が足尾鉱毒事件について直訴したことを新聞報道で知り衝撃を受けた黒澤は、田中が宿にしていた東京市芝口二丁目(後の東京都港区新橋)にある「越中屋」という三等旅館を訪れ、田中と面会する。突然の来訪にもかかわらず快く自分を受け入れ、事件の事を丁寧に説く田中の人柄に感銘し、田中と一緒に農民救済に関わることを決意した[8]。
まずは田中の勧めで内村鑑三率いる足尾銅山鉱毒災害地学生視察団に加わり現地を見て、更に独自での現地視察も行った。視察後「学生鉱毒救済会」が東京に作られると、これに参加し、街頭演説や募金活動を行った。だが、政府の圧力で学生運動が下火になるのを目のあたりにした黒澤は、被害地の青年達自らが立ち上がるべきではないかと考え、農民が自主的に団結し行動する「青年行動隊」の組織化を目論んだ。この実現のため、学業を放り出し被害地を回り、集会・演説会、中央の名士を招いての懇親会の開催などをして同士集めに奔走した[9]。このような果敢な行動から黒澤は"小田中"とも呼ばれるようになった[10]。
渡道し酪農業と北海道開発に尽くす[編集]1905年(明治38年)夏、北海道に渡った黒澤は、北海タイムスの阿部宇之八に白石村(後、札幌市白石区)で酪農を営む宇都宮仙太郎を紹介され彼に逢いに行く。 出会った宇都宮から、牛飼いには三つの徳(得)がある、すなわち「役人に頭をさげなくてもよい」、「動物が相手だから嘘をつかなくてもよい」、「牛乳は日本人の体位を向上させ健康にする」と説かれた黒澤はその話を気に入り、宇都宮の牧場の牧夫となることを即決した。酪農の作業は辛いものがあったが、自作の道具で乳搾りの練習をしたりして熱心に取り組んだ[17]。
1906年(明治39年)12月に徴兵され札幌市の歩兵連隊に入る。兵役を終えた後の1909年(明治42年)4月、宇都宮から独立する。山鼻村東屯田(後の札幌市中央区南10条西8丁目あたり)でエアシャー種1頭でのスタートであった。朝3時に起き牛の世話、搾乳をし、5時には牛乳を配達し、帰っては又牛の世話をするという作業を1人で行い、睡眠時間が3時間か4時間という奮闘の日々を送った。そのかいあって5年後には飼育する乳牛が10数頭にまでになる酪農家に成長していた[18][19]。
この頃の私生活においては、1909年(明治42年)1月に日本メソジスト札幌教会(後の日本キリスト教団札幌教会)で杉原成義牧師より受洗し[20]、また1915年(大正4年)に結婚している[21]。夫婦の間に生まれた子供のうち、長男の力太郎は酪農学園大学教授、酪農学園学園長等を勤めている[22][23]。
1923年(大正12年)の関東大震災直後に、アメリカから練乳が援助物資として大量に届けられ、また、乳製品の関税も撤廃され輸入品が増えると、道内の練乳会社による国産牛乳の買い叩きや受入制限がおき、国内の酪農家は苦難に陥った。この危機に際し、黒澤は宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに酪農家自身による乳製品製造機関の創設を図り、1925年(大正14年)5月17日、「有限責任北海道製酪販売組合」を設立した。この組合で黒澤は専務理事になっている。組合は1926年(大正15年)3月に組織改編し、名称を「北海道製酪販売組合連合会(酪連)」に改めた。その後、酪連は戦時中の1940年(昭和15年)に「北海道興農公社」[24]、戦後の1947年(昭和22年)に「北海道酪農協同株式会社(北酪社)」と変遷し、1950年(昭和25年)にブランド名として名乗った「雪印」を社名とした「雪印乳業株式会社」となっている[25][26]。
酪連において黒澤は販路拡充、品質向上に取組み、初代会長の宇都宮が急病により会長を辞任すると、1935年(昭和10年)5月に会長に就任し、後に大企業となる雪印乳業の基盤を築いた[27][26]。
黒澤はまた北海道開発の方面でも活躍しており、戦前においては、デンマーク式農業の紹介や、北海道議会憲政会の拓殖計画副委員長に就任し北海道第二期拓殖計画の策定で主導的な役割を果たす、などの事を成した。戦後は1952年(昭和27年)6月に北海道開発庁の北海道開発審議会委員に任命され、1954年(昭和29年)9月には同会会長に就任し以後8期16年会長職を務め、北海道開発計画の策定等で指導的役割を成した[31]。
その他の北海道産業界での経歴としては、北海タイムスにおいて1960年(昭和35年)12月に社長に、1966年(昭和41年)5月に会長に就任、札幌テレビにおいて、1957年(昭和32年)10月に設立発起人の一人となり設立後取締役に就任などがある[31]。
黒澤はこの酪農義塾で自身の主張する『農民道五則』で塾生達の農業人としての精神育成に努めた。『農民道五則』とは以下である[40]。
一、農民は誠そのものたれ(農民は正直であれ)
相手を疑う前にまず自分の姿勢を正直一途にすること一、農民は天地の経輪に従え(農民はその土地の役目を知れ)
気候風土を十二分に活用した農業を実践すること一、農民は土を愛せよ(農民は土を肥やせ)
国土を豊かにする農業経営をなすこと一、農民は勤労を尊び倹約を守れ(農民は無駄をせずうんと働け)
独立自営民は如何なる時代でもこの心構えを持つこと一、農民は協力一致せよ(農民は産業組合によって団結せよ
農民は連帯心を持ち協力しあって大をなすこと— 酪農学園史3 85-87頁
表彰・叙勲等[編集]
- 1939年(昭和14年)北海道開拓の功労より、北海道庁長官表彰を受ける[31]。
- 1954年(昭和29年)産業教育の功労より、文部大臣表彰を受ける[31]。
- 1957年(昭和32年)藍綬褒章受賞[31]。
- 1964年(昭和39年)酪農振興の功労より、勲三等旭日中綬章受賞[31]。
- 1966年(昭和41年)北海道文化賞受賞[31]。
- 1968年(昭和43年)北海道新聞文化賞受賞[59]。
- 1970年(昭和45年)『酪農畜産の父』として、北海道開発功労賞受賞。同年、北海道開発の功労より勲二等旭日重光章受賞[31]。
- 1981年(昭和56年)『北海道開発の父』として勲一等瑞宝章受賞[31]。同年、第12回キリスト教功労者受賞[1]。
- 1982年(死後)贈従三位[60]
酪農と乳の歴史館
札幌市東区苗穂町6-1-1
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