承継
この追悼サイトは、 西田 敏行(俳優・歌手(代表作「釣りバカ日誌」ハマちゃん)さまのために作成されました。

享年76歳 、誕生日 1947年11月4日、命日 2024年10月17日
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西田 敏行(にしだ としゆき、1947年昭和22年〉11月4日 - 2024年令和6年〉10月17日)は、日本の俳優歌手タレント司会者福島県郡山市出身。明治大学付属中野高等学校卒業、明治大学農学部中退。身長166cm(公称)、体重80kg超。4歳年下の妻と2女がいる[2]

株式会社オフィスコバック所属。協同組合日本俳優連合理事長日本アカデミー賞組織委員会副会長[3]勲等旭日小綬章

本格的に役者へ
1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入り、1970年(昭和45年)に卒業し、青年座座員となる。同年の青年座7月公演『情痴』(作:西島大)で初舞台を踏んだ。1971年(昭和46年)の10月公演『写楽考』(作:矢代静一)では早くも主役に抜擢され大器の片鱗を見せた。その後は役者として不遇の日々を送るが、1976年(昭和51年)にレギュラー出演した『いごこち満点』と『三男三女婿一匹』(共にTBS)で注目を集め、森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得した。1977年(昭和52年)には『特捜最前線』(テレビ朝日)、1978年(昭和53年)には『西遊記』(日本テレビ)に重要な役でレギュラー出演した。さらに1980年(昭和55年)には『池中玄太80キロ』(日本テレビ)と『サンキュー先生』(テレビ朝日)で主演を務め、翌1981年(昭和56年)にもNHK大河ドラマおんな太閤記』で準主役を務めるなど、連続ドラマに出演した

また、歌手活動も精力的に行い、1981年(昭和56年)4月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ主題歌)は大ヒットとなった。なお、NHK紅白歌合戦において、基本の4パターンである司会、歌手、審査員、応援(ナレーションを含めると5パターン)全てで出演経験があるのは西田のみである。素朴で飾り気のないキャラクターやトーク、アドリブの巧さ、コメディアンエンターテイナーぶりはバラエティ番組やコント番組でも注目され、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』を始め、数多くの番組に出演し、その他司会など、演劇活動以外でもマルチな才能を発揮している。

1986年(昭和61年)、映画『植村直己物語』の主演を務めた。西田にとっては明大農学部の先輩で、映画公開の2年前の1984年2月にマッキンリーで消息を絶った冒険家・植村直己を演じた。この作品ではモンブランフランス)、エベレストネパール中国)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行した。話題となったが、7か月に及ぶ長期ロケは過酷なもので西田は死を覚悟して臨んだ[7]。「実際に大自然と対峙し、つくづく抗えないことがあるんだと痛感させられました。同時に、大自然の中に身を置いて芝居をするという経験が、僕に言葉にはならない、いろんなものを与えてくれたという意味で、エポックメーキングになった作品だと思います」と、自身にとって大きな転機となった作品だとしている[8]。2年後の1988年6月公開の映画『敦煌』でも長期の現地ロケに参加した。一時は「極地俳優」の異名をとった。

1988年(昭和63年)から映画釣りバカ日誌』シリーズに出演した。三國連太郎とのコンビで、最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、自身の代表作の1つとなった。ちなみに西田の映画初出演作品は、三國主演の『襤褸の旗』(監督:吉村公三郎足尾銅山鉱毒事件を題材にした作品、1974年)で、反体制派農民の一人、多々良治平という役だった[9]

1994年(平成6年)、東宝ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢され、その後7年にわたり出演している。

2001年(平成13年)、朝日放送テレビ探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に起用され、1月26日放送分から2019年11月22日放送分まで、約19年間にわたりレギュラー出演した(詳しくは後述の『探偵ナイトスクープ』参照)。初代局長・上岡龍太郎が2000年3月末で芸能界引退のため降板した(番組では4月放送分まで)。西田は番組からの熱心な打診を受け内諾していたものの、大河ドラマ『葵 徳川三代』の収録が完了するや上述のアコンカグア登山のスケジュールに追われており、その収録を終えなければ出演できない状況だった。そのため番組内では登場まで西田の名前を伏せ、局長席に「鋭意交渉中」の札を掛け続けて探偵、顧問が週替わりで進行役を務めた。局長としての初出演は日本への帰国直後、そのままABCホールに直行しての収録となり、ニットシャツにジーンズ、顔中に無精髭をたくわえたワイルドな出で立ちでの登場となった。

同年11月7日、首の骨が変形し、頸椎の神経が圧迫され、手足がしびれる「頸椎性脊髄症」を患い入院した。15日に神経圧迫部位を除去する手術を行い、翌月には退院・復帰している[12]

2003年(平成15年)3月3日夜、自宅で心筋梗塞のため倒れ緊急入院した[13]。処置が早く、症状も安定していたため28日には退院している[14]。上述の通り肉食中心の生活でヘビースモーカーだったが、入院中、吉永小百合から手紙をもらい、そこに書かれていた「タバコだけはやめてね、西やん」の言葉に一念発起し禁煙宣言した[注釈 2]。また体重も82kgまで減量した。復帰後のインタビューで「ここで死んだら遺作(のタイトル)が『ゲロッパ!』になるが、それだけは避けたかった」と、この時の出演映画の告知とユーモアを交えたコメントを述べ、全快をアピールしている。

2004年(平成16年)1月1日、前日をもって青年座を退団した。元青年座スタッフで、長年マネージャーを務めていた小林保男が設立したオフィスコバックに移籍した。これは自身の健康上のこととともに2001年10月18日、師事していた青年座元プロデューサーで青年座映画放送代表取締役の金井彰久(声優、かないみかの父)が65歳で死去[15] したことが契機となっている。

2008年(平成20年)11月、長年にわたる演劇界での業績が認められ、紫綬褒章を受章した[16]

主な作品テレビドラマ
特捜最前線』/『西遊記
池中玄太80キロ』シリーズ
おんな太閤記
淋しいのはお前だけじゃない
山河燃ゆ』/『武田信玄
翔ぶが如く』/『八代将軍吉宗
葵 徳川三代』/『白い巨塔
功名が辻』/『坂の上の雲
ドクターX〜外科医・大門未知子〜』シリーズ
八重の桜』/『家族ノカタチ
俺の家の話』/『鎌倉殿の13人

映画
釣りバカ日誌』シリーズ
襤褸の旗』/『悪魔が来りて笛を吹く
北斎漫画』/『植村直己物語
敦煌』/『おろしや国酔夢譚
学校』/『虹をつかむ男
陽はまた昇る』/『ゲロッパ!
THE 有頂天ホテル』/『相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン
旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ
星守る犬』/『ステキな金縛り
アウトレイジ ビヨンド
ナミヤ雑貨店の奇蹟

アニメ
がんばれ!!タブチくん!!』シリーズ
バラエティー番組など
探偵!ナイトスクープ』/『人生の楽園
ラジオドラマ
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このメッセージは、 2024年10月19日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
西田敏行は、ユーモアあふれる温かい人柄と、幅広い演技力は多くの出演映画を通じて日本中のファンに愛され続けることでしょう。 大、大ファンの一人として心より追悼いたします。    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年10月19日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
西田敏行は、ユーモアあふれる温かい人柄と、幅広い演技力は多くの出演映画を通じて日本中のファンに愛され続けることでしょう。 大、大ファンの一人として心より追悼いたします。    合掌
軌跡

(幼少・学生時代)

郡山貯金局に勤める今井泉と紀惠の間に生まれる。父方の祖は和泉国伯太藩家老職を務めた今井家である。幼くして父が亡くなり、母は美容師として働いて息子を育てるが、5歳の時に母は再婚し[4]、伯母・美代(母の姉)夫婦の西田家に引き取られた[4][5]。養父・西田辰治の祖は薩摩藩として島津家に仕えた[5]。辰治は郡山市役所に勤めていたが、生活は厳しく、家族は神社の社務所に住んでいた[4]

少年時代は養父に連れられ映画館へ通い[4]、チャンバラ映画に熱中した。観る側より映画のスクリーンに映る自分の姿をぼんやり夢想していた。中学校に入り、演劇に興味を持つが、演劇部は女性部員ばかりで、当時、男子生徒の部活動といえば、スポーツが一般的だった風潮もあり、悶々とした3年間を過ごす。映画で「東京弁」に触れるうち、「俺このままずっとこの多感な時期こっちで暮らしていると、福島弁が染みついちゃって、もしかしたら標準語をしゃべれなくなっちゃうんじゃないか」との危機感を感じ始め[6]、演劇が好きでも福島弁でしか演じられない現状に自問し、標準語を習得したいと思い始め、両親を説得の上、中学卒業とともに上京した。