承継
軌跡

人生史(功績)

  • 藩命でオランダ語、英語、洋学や砲術を学び、 外国奉行の通訳として採用された。 1867年(30歳)、 軍艦頭取・小野友五郎が幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派されるのに、 津田、福澤諭吉、尺八(せきしんぱち)の3名 が通訳として随行。
  • 帰国後、 新潟奉行に転役して、 通弁・翻訳御用、 英語教授方に就き、 戊辰戦争では幕府側として越後へ出向き敗戦。 維新後は官職を辞して、洋風旅館に勤め西洋野菜の栽培を手がける。 
  • 1871年(34歳)、政府派遣の岩倉使節団に開拓次官 黒田清隆 が女子教育の必要性を考えて女子留学生を随行させると開くと、 娘の梅の梅子に改名)を応募する。 横浜出港時の梅はまだだ (1週間後に7歳)。 民部省に勤めたのち、1873年(36歳)にウィーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民(日本赤十字 社の創設者)の書記官として随行。 オランダ人農学者の指導を受け、翌年の帰国後、 『農業三事』として出版した。 津田がウィーン万博か ら持ち帰ったニセアカシアの種子は、 1875年 (38歳)に大手町に植えられ東京初の街路樹となった。 翌年、 東京麻布に農産物の栽培・ 販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする学興社を設立、農学校も併設した。
  • 1876年(39歳)、 『農業雑誌』でアメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始め、これが日本で最初の通信販売となる。 足尾事件で は田中正造を助け、農民救済運動に奔走した。 1897年に事業を次男に譲り引退、鎌倉で過ごす。