承継
軌跡

(生い立ち)

福井県大飯郡本郷村(現おおい町)の、佐分利川沿いの集落で棺桶造りや宮大工をしていた家に生まれ[9][10][要ページ番号]、5人兄弟の次男として育った。生家は乞食谷(こじきだん)と呼ばれる谷の上にあり、そこは死体を埋める谷のとば口で、一家は地元の素封家の所有する薪小屋に住んでいた[11][要ページ番号]。8歳の時には北丹後大震災に逢い、家から茶畑に避難する経験をした。当時京都臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院の住職になった山盛松庵が、若狭で酒井家賞を受けた子供から小僧をとろうとして選ばれ、貧困もあって、9歳の時に京都の伯父の元に送られ、10歳の時に正式に瑞春院に入った[11]。(この時、寺に住み込んで画の練習をしている南画家の服部二柳を見ている)得度して水上集英に改名、室町小学校を卒業し、柴野中学に通う[12]

(作家への足どり)

しかし修行生活の厳しさに13歳の時に出奔。その後、連れ戻されて等持院に移り、僧名承弁に改名。1933年旧制花園中学校(現・花園中学校・高等学校)3年に編入、等持院の蔵書の小説本を無断で貪り読み文学への関心を持った。等持院住職の二階堂竺源は衣笠貞之助と親しく、等持院には東亜キネマの撮影所があって、撮影の手伝いもさせられ、これらの経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされた。また等持院に立ち寄る宮嶋蓬州や錦織大宗にも接した。中学4年の時に『都新聞』に投稿するようになり、卒業後は寺を出て伯父の下駄屋で働き、むぎわら膏薬の西村才天堂の行商を経て、1937年昭和12年)、立命館大学文学部国文学科に入学、同年に府庁で満蒙開拓義勇軍への勧誘を行う仕事に就いた後、満州にある国際運輸社の社員となって奉天に渡るが、翌年結核を患い、帰国療養として若狭に戻る。文学書を読み漁り、水上努の名で『月刊文章』『作品倶楽部』に投稿、『月刊文章』で選外佳作となって初めて文章が活字になった。