承継

本名:池端 清亮(いけはた きよあき)
戒名:俗名や戒名は何も墓石に刻まれていません(知っている方いれば教えてください)
墓地多磨霊園(マップ)2区 2種 11側 2番(池端家之墓)〒183-0002 東京都府中市多磨町4丁目628
※墓石には、安置されている人の俗名や戒名は刻まれていません。墓碑銘もない。多磨霊園事務所で配布されている公式パンフレット(東京都公園協会発行)には、「著名人のお墓」の欄に「上原謙」が掲載されいます。古いことから、大正12年に亡くなった父・池端清武と一緒に埋葬されているものと思われる。

俳優。戦前戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人。戦前戦後の全盛期は圧倒的な美貌で人気を博し、「絶世の二枚目スター」だった。長男は加山雄三(本名は池端直亮)孫は女優の池端えみ。関西歌舞伎の重鎮である中村鴈治郎家(及び林又一郎家)の縁戚になっている。(詳細は人生史) 
※カラーで復元
上原謙 (@UrmU59YOjPlsyn4) / Twitter

晩年には男性用カツラのCMに堂々と出演し(自らカツラを着用していると宣言)お笑いバラエティー番組にも熱心に登場。子供向け特撮番組にも出演している。共演しているコメディアンのギャグを「わたしもやりたい」と懇願し、「大スターの上原さんにそこまでさせるのはまずい」と裏方スタッフを困らせるなど、飾らない庶民的な一面も見せていたという。元々、上原自身はダジャレや冗談を言うのが大好きだった。


メッセージは謙さんへの想いを表すものです。 こちらに最初のメッセージを投稿してください。

メッセージの投稿

 
軌跡

生い立ち

東京・牛込に生まれる。父は鹿児島出身の陸軍大佐・池畑清武。本名は池端清明(いけはた きよあき)。成城中学時代、父が病死し、叔父で当主の池端玄三も死去。息子がいなかったため、一人娘の上野菊枝の夫・上野篤が上京し、池畑家の跡取り息子として養子縁組を申し入れた。彼は鹿児島市の市長として働いていた。立教大学に入学し、交響楽団に入りトランペットを吹く。在学中、同級生が松竹蒲田の新人募集に上原の写真を無断で送り、採用される大学卒業後、松竹映画株式会社に入社。清水宏監督作品『若旦那はるこ』でデビュー

スターの道

松竹ニパメ三羽烏を結成。松竹ニ枚目三羽烏として人気を博し、「婚約三羽烏」を大ヒットさせる。これをきっかけに、松竹の人気俳優たちと「8クラブ」を結成する。その後、『浅草の灯』『今宵限り』『男対女』『赤と緑』など、戦前の名作に出演した。戦後は松竹を退社し、フリーの俳優となる。1948年、主演した『三百六十五夜』が大ヒットし、以後、数々の作品で重要な役を演じ、当時の高額納税者層のトップタレントとなる。『煙突の見える場所』(1953)、『晩菊』(1954)、『山の音』(1956)などに出演し、妻役、夫役で第8回毎日映画コンクール主演男優賞を受賞する。

負債からの復帰

1970年、神奈川県茅ヶ崎市に「パシフィックパークホテル茅ヶ崎」を建設・開業。妻の小桜陽子が2ヵ月間の闘病の末、52歳で他界したのだ。その2ヵ月後、パシフィックパークホテル茅ヶ崎を経営していた日本観光開発(後のパシフィックジャパン株式会社:小桜陽子の弟、岩倉具視が経営)が、23億円の負債を抱えて倒産した。ホテルは18億円で売却されたが、上原と息子の加山雄三には莫大な借金が残り、実は同年、茅ヶ崎の自宅にも6千万円の抵当権が設定されていた。上原は東宝との契約を打ち切られ、加山雄三も倒産と結婚で世間の風当たりが強くなり、人気は落ちたが、その後10年かけて自力で借金を返し、苦労の末に復活した。
報告
TsuitonetSupportさんが2020年11月18日に投稿
1933年(昭和8年)、初めて「家計簿」を付録にした[7]。1937年(昭和12年)2月号から翌1938年(昭和13年)5月号まで、川口松太郎の小説『愛染かつら』を同誌に連載、同作を原作に松竹大船撮影所が製作、野村浩将が監督、上原謙田中絹代が主演して映画化され、同年9月15日に前篇・後篇ともに公開され、大ヒットしている[8]。wikipediaより