承継
軌跡

生い立ち

東京・牛込に生まれる。父は鹿児島出身の陸軍大佐・池畑清武。本名は池端清明(いけはた きよあき)。成城中学時代、父が病死し、叔父で当主の池端玄三も死去。息子がいなかったため、一人娘の上野菊枝の夫・上野篤が上京し、池畑家の跡取り息子として養子縁組を申し入れた。彼は鹿児島市の市長として働いていた。立教大学に入学し、交響楽団に入りトランペットを吹く。在学中、同級生が松竹蒲田の新人募集に上原の写真を無断で送り、採用される大学卒業後、松竹映画株式会社に入社。清水宏監督作品『若旦那はるこ』でデビュー

スターの道

松竹ニパメ三羽烏を結成。松竹ニ枚目三羽烏として人気を博し、「婚約三羽烏」を大ヒットさせる。これをきっかけに、松竹の人気俳優たちと「8クラブ」を結成する。その後、『浅草の灯』『今宵限り』『男対女』『赤と緑』など、戦前の名作に出演した。戦後は松竹を退社し、フリーの俳優となる。1948年、主演した『三百六十五夜』が大ヒットし、以後、数々の作品で重要な役を演じ、当時の高額納税者層のトップタレントとなる。『煙突の見える場所』(1953)、『晩菊』(1954)、『山の音』(1956)などに出演し、妻役、夫役で第8回毎日映画コンクール主演男優賞を受賞する。

負債からの復帰

1970年、神奈川県茅ヶ崎市に「パシフィックパークホテル茅ヶ崎」を建設・開業。妻の小桜陽子が2ヵ月間の闘病の末、52歳で他界したのだ。その2ヵ月後、パシフィックパークホテル茅ヶ崎を経営していた日本観光開発(後のパシフィックジャパン株式会社:小桜陽子の弟、岩倉具視が経営)が、23億円の負債を抱えて倒産した。ホテルは18億円で売却されたが、上原と息子の加山雄三には莫大な借金が残り、実は同年、茅ヶ崎の自宅にも6千万円の抵当権が設定されていた。上原は東宝との契約を打ち切られ、加山雄三も倒産と結婚で世間の風当たりが強くなり、人気は落ちたが、その後10年かけて自力で借金を返し、苦労の末に復活した。

家族

孫は俳優の加山徹、元女優で料理研究家の梓真悠子、女優の池端えみ若山富三郎の長男・若山騎一郎は元娘婿。義父は宮内大臣を歴任した岩倉具定公爵(元勲岩倉具視次男)の五男で男爵の岩倉具顕。義母は江間俊一の娘・光子(女優の青木しのぶ)。義父の姉依仁親王妃周子久邇宮朝彦親王香淳皇后祖父)の末弟東伏見宮依仁親王の妃であるため、池端家は岩倉家を通して天皇家の縁戚となった。また、若山の弟勝新太郎の妻中村玉緒2代目中村鴈治郎の長女なので、池端家は奥村家を通して関西歌舞伎の重鎮である中村鴈治郎家(及び林又一郎家)の縁戚になっている。