承継
この追悼サイトは、 安宅 弥吉(安宅産業や甲南女子学園の創設者)さまのために作成されました。

享年75歳 、誕生日 1873年4月25日、命日 1949年2月5日
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安宅 弥吉(あたか やきち、1873年明治6年)4月25日[1] - 1949年昭和24年)2月5日[1])は、石川県金沢市金石生まれの実業家安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。大阪商工会議所会頭。鈴木大拙パトロン的存在としても知られる[2]

長男の安宅英一神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり[1]、次男の安宅重雄京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。娘の安宅登美子1925年1926年全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である[3][4]登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。

弥吉の創業した安宅産業は三菱商事三井物産伊藤忠商事丸紅住友商事日商岩井トーメンニチメン兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていた。しかし弥吉の死後、同族経営の弊害が現れるなどし、1977年には安宅産業破綻として伊藤忠商事及びメインバンクの住友銀行協和銀行の主導で伊藤忠商事との間で吸収合併がなされ、消滅することになった

来歴・人物[編集]
薬種商・安宅幸喜の三男として生まれる[1]1890年当時、東京で仕入れをしていた金沢の小間物商・國本栄作に連れ立って同年3月降雪の親不知(現:新潟県糸魚川市)を草履を履きて徒歩で上京。ちなみに後(1922年12月27日付)に本人より國本家へ礼状と金杯が送られている。1895年7月に高等商業学校(現:一橋大学)を卒業した[1]

実業家として[編集]
高商を卒業した1895年に日本海陸保険株式会社(1901年解散)にいったん入社するが[5]、貿易商を志して同年10月に日下部商店(後破綻)へ入社、香港支店(現地では日森洋行という商号を使用した)責任者(支配人)となる[1]1901年香港支店(日森洋行)の共同経営者となる。1904年日下部商店本店の破綻に伴い退店。帰国し、同年7月、安宅商会(後の安宅産業)を設立した[1]1907年2月、大阪毛織社長[1]1935年12月、大阪商工会議所会頭[1]1936年12月、南満州鉄道(満鉄)監事[1]

1935年には故郷金沢市の大野湊神社拝殿を寄贈している。1939年12月19日、貴族院議員[6]1946年5月14日辞職[7])。1940年勲四等瑞宝章受章

1942年6月に安宅産業社長を退任し、相談役に就任。1946年8月、公職追放となった[1]

教育家として[編集]
高商の先輩にあたる平生釟三郎による財団法人甲南学園(現:学校法人甲南学園)の設立に協力し甲南学園の理事に就任した他、1920年には甲南高等女学校(現:学校法人甲南女学園甲南女子中学校・高等学校甲南女子大学)を設立、1926年から1946年まで同第2代理事長。

久徴館(旧加賀藩前田家が石川出身者支援のために東京の本郷区駒込西片町に建てた寄宿舎[8])で居を共にした鈴木大拙に対し、「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援し、松ヶ岡文庫の設立にも尽力した[2]。同文庫の入り口には、「自安」(安宅のこと)と題した頌徳碑があり、「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎は君の援助によるもの」と刻まれている

晩年・死後[編集]
1943年6月に脳出血で倒れて以降、自宅静養が続いていたが、1949年2月5日に75歳10ヶ月で死去した。

遺骨は鈴木大拙ゆかりの鎌倉市東慶寺、故郷である金沢市の本竜寺、ならびに西宮市の海清寺の3ヶ所に分骨され、それぞれに墓が立てられている。

 安宅産業は、04(明治37)年創業の老舗で鉄鋼、機械、パルプ、木材の取り扱いを中心に業容を拡大し、十大総合商社の一角に成長した。70年代、米国子会社での巨額の債権焦げ付きから経営危機に陥り、メインバンクの住友銀行(現三井住友銀行)の主導で伊藤忠商事に吸収合併された。従業員3600人、年商2兆円の巨大商社の事実上の経営破綻、解体、消滅は日本経済史のエポックとして語り継がれる。

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            安宅弥吉頌徳碑  金沢市寺中町ハ163番地(大野湊神社敷地内)


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このメッセージは、 2024年9月22日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
安宅産業は10大総合商社の一角にまで成長したが、弥吉の死後、同族経営の弊害が現れ、70年代に米国子会社での巨額の債券焦げ付きから経営危機に陥り経営破綻となった。 経営のバトンタッチ及び、危機管理システムの構築の重要さを教えた事案として語り継がれました。   合掌

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このメッセージは、 2024年9月22日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
安宅産業は10大総合商社の一角にまで成長したが、弥吉の死後、同族経営の弊害が現れ、70年代に米国子会社での巨額の債券焦げ付きから経営危機に陥り経営破綻となった。 経営のバトンタッチ及び、危機管理システムの構築の重要さを教えた事案として語り継がれました。   合掌