承継
軌跡

(生い立ち)

1850年、当時はイギリスの保護領であったレフカダ島1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキシラ島出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに出生。生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いた[3]

父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ=アイリッシュである。イギリス軍の軍医少佐としてレフカダ島 (Lefkada) の町リュカディアに駐在中、キシラ島(イタリア語読みではセリゴ島)の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚した。カシマティはアラブの血が混じっているとも伝えられる。ラフカディオは3人男子の次男で、長男は夭折し、弟ジェイムズは1854年に生まれ、のちにアメリカ合衆国農業を営んだ[3]

(少年時代)

1851年、父の西インド転属のため、この年末より母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中パリを経て1852年8月、両親とともに父の家があるダブリンに到着。移住し、幼少時代を同地で過ごす[3]

父が西インドに赴任中の1854年、精神を病んだ母がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート)に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった

(エピソード)

身体、外見[編集]顔の左側に手を添える八雲(上)。友人のミッチェル・マクドナルド(下)と共に。
  • もともと強度の近視であったが、さらに晩年は右目の視力も衰え、高さが98センチメートルもある机を使用して紙を目に近づけランプの光を明るくして執筆を行った。
  • 16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。