(少年期)
ちぎり紙細工との出会い1934年(昭和9年)の春、養父が不在の間に、母・ふじが清を含む子供3人を連れて北千住(足立区千住)の木賃宿へ逃れる[注釈 1]。生活の困窮で、すぐに杉並区方南町(現・杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。この頃に母・ふじの旧姓が山下であるため山下清を名乗るようになる[1]。しかし、新しい学校でも勉強についていくことができず、反抗的な態度だったため、同年5月、母・ふじが千葉県東葛飾郡八幡町[1]大字八幡字衣川(現・千葉県市川市八幡4丁目)[3][4]の知的障害児施設(清が入園した当時は救護法下の救護施設)「八幡学園」へ預ける。この学園での生活で「ちぎり紙細工」に出会う。これに没頭していく中で磨かれた才能は、1936年(昭和11年)から学園の顧問医を勤めていた精神病理学者・式場隆三郎の目に止まり、式場の指導を受けることで一層開花していった[1]。