百歳のご長寿の表彰
法名:最勝院釋慈恩 行年102歳
空知太墓地 墓地番号:C-118 保田家墓所マップ
法名:最勝院釋慈恩 行年102歳
空知太墓地 墓地番号:C-118 保田家墓所マップ
「母の人生」
母保田スギは新潟県出身の渡辺熊蔵、 ヨイの5男1女の第4子として、 大正9年4月1日、 樺太庁大泊で生まれました。本当の誕生日は4月4日ですが、 就学を1年早めるため、 4月1日生まれで届け出たそうです。
熊蔵は「修験道」を実践する信心深い人で、 事業心に富む行動家でした。 利尻で旅館業・漁業を営んでいましたが、 明治38年に南樺太が日本の領土になると、 いち早く大泊に渡ってニシン漁に携わりました。 ヨイは家業と家族を支える働き者で、 困った人に手を差し伸べる心根の優しい人でした。
熊蔵が病を得て病床に伏すようになると、 母と16歳違いの長兄国武が、 樺太の最大企業「王子製紙」に就職し、 弟妹の面倒を見ることになりました。
母は大泊で小学校を終え、 大泊女学校に進みましたが、 親代わりだった国武の豊原転勤に伴い、 豊原女学校に籍を移し、昭和12年3月に卒業しました。 母は最晩年になっても「女学校へ行けたのは兄のお陰だ」といつも感謝をしておりました。
卒業後は豊原で開業した米屋・雑貨店や家事の手伝いをしていましたが、 第2次世界大戦開戦10日後の昭和16年12月18日、 縁があって樺太庁土木課技士保田勝男と結婚しました。 昭和19年1月には長男勝範を授かりましたが、 その直後に父勝夫が召集を受け、 終戦直前のロシア軍侵攻により捕虜となり、 北樺太オハの「捕虜収容所(ラ ーゲリ)」へ収容されることになりました。
昭和22年、 残された母は、 祖母春江と兄とともに引き揚げ船で樺太を離れ、 旭川の「引き揚げ者住宅」に居住することになりました。 ロシア軍にすべての財産を収奪され、 生活基盤がない母は、 寝る間も惜しんで、 赤十字病院での付添い、増毛で仕入れた魚の行商などの仕事を掛け持ちしながら、 父の帰りを待ち続けたそうです。
父が帰還したのは捕虜生活が4年4か月経った昭和24年12月のことです。 母の人生で一番嬉しかったのは、 この時だったことでしょう。
昭和25年、 父が戦前からの舗装工事の経験を活かし、 舗装業を始めようとしていた不二建設に職を得て、 滝川での生活が始まりました。
外地出身の母は滝川に知る人もなく、 最初は新しい環境に戸惑ったようですが、 近所に豊原女学校の同窓の方がいることが分かり、 子供たちの学校のPTA仲間に友人ができ、 婦人会にも入会して、 滝川人になりました。 男5人の兄弟の中で育ち、 元々、 元気で活発な母でしたので、 ボランティア活動などにも声をかけていただき、 楽しそうに飛び回っていた姿が思い出されます。
また、 若い頃から山菜採りが大好きで、 同好の方と遠方まで徒歩で往復し、 背中と両手いっぱいに山菜を抱えていた姿も懐かしい思い出です。 5月と6月の我が家の食卓には多くの山菜料理が並び、 弁当のおかずも山菜だらけでした。
50代から70代にかけては身内の不幸が重なり、 辛い日々もありました。 特に息子2人に先立たれたことは、 母にとって 最も悲しい出来事でした。 孫たちの成長が大きな慰めと希望でした。
70歳を過ぎてからは「北海道立近代美術館」などで企画する海外旅行に毎年複数回参加し、 美術館・歴史的建造物巡り、オペラ鑑賞を楽しんでいました。 両膝の人工関節手術を受けた後も海外旅行にせっせと出かけていました。
ボランティア活動では当初から関わっていた「声の広報」 に強い思い入れがあったようです。 94歳を過ぎた秋の日、 市民会館で行われていた吹き込み現場に出かけたのが母のボランティア活動の最後になりました。
母の老いを強く感じるようになったのは96歳を超えた頃からです。 歩くのが少しずつ辛そうになり、 同じ話が多くなりました。 それでも、 昭和30年代から付けている日記を書き続け、 月刊誌や本を取り寄せて読み耽り、 日々の出来事にも関心がありました。
100歳を迎える頃からはめっきり老化が進みました。 話したことをすぐに忘れるようになり、 眠っている時間も増えました。 ただ、 時間がかかるようにはなりましたが、 自力で歩き、 着替え、 洗顔、 読経、 食事の朝のリズムを崩さず、 食欲旺盛で毎日3食完食でした。
101歳の誕生日はとても元気な一日でした。 孫やひ孫に祝ってもらい、 大好きな寿司とケーキをペロリと平らげ、 幸せな一日になりました。 まだ2, 3年は元気でいてくれるだろうと思わせてくれた一日でした。
体調が悪くなってきたのは5月中旬からです。 食事を摂る量が減り、 眠る時間がさらに増え、 体を動かすことがより億劫そうになりました。
5月29日からは飲むと咳き込み、 食べると息遣いが苦しそうになり、 寝ている時も呼吸が荒れてきました。 31日に何とか夕食を摂った後は6月1日の夕方まで起きられず、 呼吸があまりにも苦しそうなので、 救急車を呼び「滝川市立病院」へ行きました。 酸素吸入と点滴を受け、 呼吸は楽そうになり、顔色もよくなってきました。 目は閉じていましたが、 母に声をかけると「お腹が空いた。 美味しいものをちょうだい」と大きな声で叫びました。 それが家族の聞いた母らしい最期の言葉になりました。
医師からは「検査値は正常だが、 老衰で心肺機能が弱っている」と言われ、 コロ ナ禍で面会はできないけれど、 呼吸が楽になる方が母は幸せだと苦渋の決断をし、 入院させることにしました。 母の不在で、 家の中は “ひっそり ” となりました。
母は6月7日午前10時36分、 静かに息を引き取りました。
母は、 いつも前向きで、 気持ちが強く、 愚痴をこぼさず、明るく、 ユーモアのある人でした。 晩年は感謝の言葉がより多くなりました。 家族ー同、 最期までしつかりと生き抜いた母の姿を心に刻み、 これからの日々を歩んでまいりたいと思います。
皆様には、 長い間様々な場面で、 母が大変お世話になりました。 本当にありがとうございました。
喪主 保田勝滋