承継
軌跡

(妹と2人きりになる)

1906年(明治39年)に京都の海軍予備学校へ入学し、翌年に予備校を卒業すると郡役所の雇員となる。同年に祖父が死去し、「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない。金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」と遺言を遺した。18歳で、両親と祖父母を失い、妹と共に残された康次郎は途方に暮れ、後に当時のことを「私の失望落胆は言語を絶していた」と語っている。

1909年(明治42年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金を工面して[5] 上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学した。早大では弁論部柔道部に属するも、授業はあまり顔を出さずに試験の時に通学するだけで副業やアルバイトに熱中していた[6

(生い立ち)

滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)に農業兼仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた[注 1]。4歳で[2] 父を腸チフスで失い[3]、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。

1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し滋賀県立第一中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配した[4] ことから進学を断念して農業に従事する。1903年(明治36年)6月に祖母が死去すると、祖父とともに彦根へ出て米相場を張ったり肥料商を手掛けるも何れも失敗。翌年には八木荘に戻って、耕地整理と土地改良に精を出す。