この追悼サイトは、 南部 陽一郎(日系アメリカ人、ノーベル物理学賞受賞者)さまのために作成されました。
享年94歳 、誕生日 1921年1月18日、命日 2015年7月5日
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南部 陽一郎(なんぶ よういちろう、英語: Yoichiro Nambu、1921年1月18日 - 2015年7月5日[1][2][3])は、日系アメリカ人の理論物理学者。シカゴ大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授・特別栄誉教授[4]、大阪大学特別栄誉教授、立命館アジア太平洋大学アカデミック・アドバイザー。専門は素粒子理論。理学博士(東京大学・1952年)。
福井県福井市出身。自宅が大阪府豊中市にあり、シカゴに在住していた。1970年に日本からアメリカ合衆国へ帰化した[5]。
朝日新聞社『朝日ジャーナル』第7巻第41号(1965)より
1950年、朝永振一郎の推薦で早川幸男、山口嘉夫、西島和彦、中野董夫と共に大阪市立大学理工学部に理論物理学のグループを立ち上げた[10]。「大阪市大での3年間は年長の教授がおらず、学生が少ないため講義の負担も少なかったため、自由を満喫できた」と後に語っている[10]。ここではベーテ=サルピーター(=南部)方程式の導出、K中間子の対発生の研究などの成果を上げた。
1970年にアメリカ合衆国の市民権を取得し、同国に帰化した[13]。2011年現在、シカゴ大学物理科学部物理学科および同学部のエンリコ・フェルミ研究所においてハリー・プラット・ジャドソン殊勲名誉教授、大阪市立大学名誉教授、大阪市立大学特別栄誉教授、大阪大学特別栄誉教授、福井市名誉市民、豊中市名誉市民などの称号を持つ。大阪大学には研究室を持ち、年に幾度も来日して特別栄誉教授として研究を続けていた。晩年、自宅は米イリノイ州シカゴと大阪府豊中市にあった。
2008年にノーベル物理学賞を受賞。彼は江崎玲於奈より年上であるため、最年長の日本人受賞者となった。
2015年7月5日、急性心筋梗塞のため逝去[2][3]。満94歳没(享年95)。
南部陽一郎ホール (大阪大学理学研究科物理学専攻 J棟2階)
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享年94歳 、誕生日 1921年1月18日、命日 2015年7月5日
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南部 陽一郎(なんぶ よういちろう、英語: Yoichiro Nambu、1921年1月18日 - 2015年7月5日[1][2][3])は、日系アメリカ人の理論物理学者。シカゴ大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授・特別栄誉教授[4]、大阪大学特別栄誉教授、立命館アジア太平洋大学アカデミック・アドバイザー。専門は素粒子理論。理学博士(東京大学・1952年)。
福井県福井市出身。自宅が大阪府豊中市にあり、シカゴに在住していた。1970年に日本からアメリカ合衆国へ帰化した[5]。
人物[編集]
日系アメリカ人(一世)の理論物理学者で1952年に渡米、1960年代に量子色力学と自発的対称性の破れの分野において先駆的な研究を行ったほか、弦理論の創始者のひとり[※ 1]としても知られ、現在の素粒子物理学の基礎をなす様々な領域に多大な貢献をなした。特に、自発的対称性の破れの発見により、2008年にノーベル物理学賞を受賞した[6]。シカゴ在住だったが、晩年は大阪府豊中市の自宅で暮らしていた。来歴[編集]
生い立ち[編集]
日本の東京府東京市にて福井県出身の父親と福島県出身の母親の間に生まれた。2歳のとき、関東大震災に遭遇し、父の実家のある福井県福井市に転居した。旧制福井中学(現福井県立藤島高等学校)卒業。父の南部吉郎は立命館中学校の卒業生で、福井県内の高校で英語教師を務めていた。吉郎は昭和23年、福井県立丸岡高等学校で勤務中に福井震災を経験している[7]。第一高等学校に補欠合格し[8]、同校3年のとき湯川秀樹の評判に刺激されて理論物理学の研究を志し、東京帝国大学に進学した。1943年に課程を短縮されて2年半で卒業(繰り上げ卒業)した後、陸軍の召集を受けて宝塚市のレーダー研究所に配属された(階級は陸軍技術中尉)[9][10]。朝日新聞社『朝日ジャーナル』第7巻第41号(1965)より
戦後の研究開始から渡米まで[編集]
1945年終戦後に東京帝国大学の理学部物理学教室(物理学科)に嘱託で復帰し、同室の木庭二郎らと共に、朝永振一郎の研究グループに参加し朝永の方法を吸収しつつ、時々訪れ議論を展開した武谷三男からも影響を受けている。コペンハーゲン学派の自由な研究を持ち込んだ仁科芳雄の下に朝永はいた[11]。1950年、朝永振一郎の推薦で早川幸男、山口嘉夫、西島和彦、中野董夫と共に大阪市立大学理工学部に理論物理学のグループを立ち上げた[10]。「大阪市大での3年間は年長の教授がおらず、学生が少ないため講義の負担も少なかったため、自由を満喫できた」と後に語っている[10]。ここではベーテ=サルピーター(=南部)方程式の導出、K中間子の対発生の研究などの成果を上げた。
渡米とその後の活動[編集]
南部研究室(1996)1952年に再び朝永の推薦を受け、木下東一郎と共にプリンストン高等研究所に赴任した。プリンストンでは強い相互作用の飽和性やスピン軌道力の研究を計画していたが、難航した[12]。翌年もプリンストンに籍を置きながら、春から秋にかけては湯川秀樹が残していた資金を元にカリフォルニア工科大学でγ-π productionの研究を行っている[12]。1954年にゴールドバーガーの誘いを受けてシカゴ大学の核物理研究所に着任。同研究所には小柴昌俊らもいた[12]。シカゴ大ではグリーン関数の表示法を研究したほか、ω中間子の存在を提唱している。1970年にアメリカ合衆国の市民権を取得し、同国に帰化した[13]。2011年現在、シカゴ大学物理科学部物理学科および同学部のエンリコ・フェルミ研究所においてハリー・プラット・ジャドソン殊勲名誉教授、大阪市立大学名誉教授、大阪市立大学特別栄誉教授、大阪大学特別栄誉教授、福井市名誉市民、豊中市名誉市民などの称号を持つ。大阪大学には研究室を持ち、年に幾度も来日して特別栄誉教授として研究を続けていた。晩年、自宅は米イリノイ州シカゴと大阪府豊中市にあった。
2008年にノーベル物理学賞を受賞。彼は江崎玲於奈より年上であるため、最年長の日本人受賞者となった。
2015年7月5日、急性心筋梗塞のため逝去[2][3]。満94歳没(享年95)。
学術賞歴[編集]
- 1970年 - ハイネマン賞数理物理学部門を受賞。
- 1977年 - オッペンハイマー賞を受賞。
- 1982年 - アメリカ国家科学賞(物理学部門)を受賞[18]。受賞理由:素粒子の相互作用の理解への貢献。
- 1985年 - マックス・プランク・メダルを受賞[19]。受賞理由:素粒子物理学の先駆的貢献。
- 1986年 - ICTPのディラック・メダルを受賞[20]。受賞理由:素粒子理論物理学における先駆的業績。
- 1994年
- 2005年
- ベンジャミン・フランクリン・メダルを受賞[23]。受賞理由:理論物理学における、先駆的な貢献。
- オスカル・クラインメダル受賞。
- 2007年 - ポメランチュク賞受賞。
- 2008年 - ノーベル物理学賞を受賞[24][25][26]。受賞理由:自発的対称性の破れの発見。
栄典[編集]
- 1978年 - 文化功労者顕彰、文化勲章受章。受章理由:物理学における長年の貢献に対して。
- 1979年 - 福井市名誉市民[27]
- 2003年 - 福井県民賞[28]
- 2011年 - 豊中市名誉市民[29]
南部陽一郎ホール (大阪大学理学研究科物理学専攻 J棟2階)
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